「鉄のカーテン」をくぐったソビエト市民たち:冷戦下、誰がいかにして出国したか?

歴史
ボリス・エゴロフ
 フライトが30分も遅れている!と怒っている人は、ソ連市民のことを想像してみてほしい。彼らのフライトの大部分は、数十年も遅れたのだ!「鉄のカーテン」は、社会主義ブロックを、世界の他のほとんどの地域から切り離し、彼らの海外旅行を夢物語にした。だがそれでも、西欧だけでなくアメリカにさえも定期的に訪問できる幸運な人たちがいた。

西欧へのいばらの道

 ソ連市民が外国に旅行できたのは、文句のつけようがない、鉄壁の理由がそろっている場合にのみ。しかも、出国ビザをもらえるまでには、いくつもの段階があった。
 逆説的だが、ソ連時代は、当局から出国ビザをもらうより、入国先から入国ビザを受領するほうがはるかに簡単だった。

 まず第一に、ある人が旅行できるためには、特定の組織の一員でなければならなかった。つまり、その人を、海外出張あるいは海外での休暇に送り出せるような組織だ。しかし、そんな組織においても、それはありふれたケースではなく、通常は、最も優秀な勤労者だけがチャンスを得た。

 いずれにせよ、彼らの上司は、ソ連以外への旅がなぜ必要なのかを示す文書を発行した。
 ところで、ソ連市民は、自分では行く先を選べなかったことにも言及しておくべきだろう。要するに、どこかへ行くチャンスが生じたときに、それに乗っかっただけのことだ。
 さて、旅行の理由を説明する書類が準備できたら、今度は、海外旅行の許可を国に申請した。
 この段階で多くの人が拒絶され、しかも、その理由も明らかにされなかった。拒絶に異議申し立てをする方法も存在しなかったのである。

 かりに、幸運にも旅行許可を得られたとしても、「官僚の壁」はまだ終わらない。その人は、特別な監視下に置かれ、上司と当局から推薦状を受け取らねばならなかった。

 そして、その「候補者」は、海外旅行を管轄する当局と面談し、公式に推薦されなければならなかった。面談の結果に不満足だった場合、申請者は、向こう何年間も、海外旅行の権利を失う可能性があった。

 また、申請者は、健康診断を受けたほか、経歴と詳細な旅行計画書など、いくつかの書類に記入しなければならなかった。

 さらに、行く先が資本主義国であった場合、ソ連の秘密警察「KGB」は、その旅行に反対しないという文書を出さねばならなかった。ただし、その国が社会主義陣営に属していれば、そうした文書は不要だったが。

 こうしてあらゆる段階がうまくクリアされると、出国ビザを付した外国旅行用パスポートが職場に送られてきた(ロシアでは現在も、2種類のパスポート――国内パスポートと外国旅行用のそれとがある)。そして、それを自宅に保管することは禁じられていた。

 また、外国旅行用パスポートが発行されると、受領者の国内パスポートとソ連共産党の党員証は、彼らが帰国するまで取り上げられた。
 さらに、海外に親戚がいて、個人的な招待状を出したという場合には、ソ連の平均月収に相当する、巨額の出国手数料200ルーブルを支払う義務があった。だから、外国人の親戚がいると、出国ビザを取得する大きな障害になった。

 こうして、海外旅行の準備はやっとこさっとこ最終段階を迎え、旅行、入国ビザ、交通機関などの運営を担当する、ソ連の旅行代理店「インツーリスト」に晴れて申請、という段取りとなる。

少数の特権層

 優先的に海外に出国できたのは、外交官、通商代表部職員、国際線パイロット、船員など、外国と直接関係のある仕事に就いていた人たちだ。

 アスリート、科学者、アーティストも、出国ビザの取得にはあまり苦労しなかった。ソ連は、海外でポジティブなイメージをつくりだすのに非常に熱心だったから。

 モスクワ州に住むイリーナ・ネクラーソワさんが、ロシア・ビヨンドに話してくれたところによると、彼女の父は化学者で、ボリス・ネクラーソフといい、1960年代にソ連代表団の一員として、数回の海外出張を行った。そして、ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ロンドンなどの学会に参加した。 

 しかも、イリーナさんによれば、彼は、モスクワ大学やレニングラード大学などではなく、地方の研究機関(北オセチア自治ソビエト社会主義共和国の鉱業冶金研究所)に所属していたにもかかわらず、欧米の資本主義国を再三訪問する機会を得たという。

 また、ソ連の指導者たちは、東側の同盟国との関係を構築、強化することに大いに注力。そこには、若者の交流、文化交流、「友情訪問」などが含まれていた。
 タチアーナ・ソローキナさんは、旧ソ連圏最大の図書館「レーニン図書館(現ロシア国立図書館)」の一部門をかつて統括していたが、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツを訪問し、いわゆる「友情の列車」に乗った。この列車の旅で、ソ連の最優秀の労働者たちは、東独その他の地域の生活に接することができた。

 タチアーナさんがロシア・ビヨンドに語ったところでは、彼女の旅行が実現したのは、彼女がコムソモール(ソ連共産党の青年組織)の書記だったことが大きいという。

「非帰還者」

 旅行申請者に対し、数多くの試験と承認、書類作成を科すことで、ソ連当局は、いわゆる「信用できない者」が出国するのを防ごうとした。こういう人々は、国費による旅行から帰らずに資本主義国に留まる可能性が常にあったから。
 ソ連では、そうした行為は、祖国への裏切りとみなされ、財産没収、自由剥奪、そして最悪の場合には銃殺刑を宣告された。

 それでも、多くの人々が可能な限りチャンスを掴み、ソ連に戻らなかった。そういう人たちは「nevozvrashchentsy」(非帰還者)と呼ばれた。
 その大半は、芸術に携わる人で、ソ連体制が彼らに十分な自由と活躍の機会を与えていないと感じていた。
 最も有名な「非帰還者」のなかには、バレエダンサーのルドルフ・ヌレエフとミハイル・バリシニコフ、世界的チェリストで指揮者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、映画監督アンドレイ・タルコフスキーなどがいた。