「クリコヴォの戦い」 フランスの画家アドルフ・イヴォンによる絵画 画像提供:wikipedia.org
外的要因
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)は、チンギス・ハンの長男ジョチの子孫が支配した国だが、14世紀後半に、ある出来事がこの国に大きな衝撃を与えた。ティムールの大帝国建設だ。
ティムールが、ママイのライバルであったトクタミシュを支援したため、ママイは対抗策として、リトアニア、ジェノヴァと同盟して、ロシアへの支配を強化しようとした。
風雲児ティムールとキプチャク・ハン国のお家騒動とが、ロシアに新たな国難をもたらしたことになる。
内なる変化
一方、13世紀前半からモンゴルの支配下に置かれてきたロシアも変わりつつあった。いわゆる「荒野修道院運動」で、ロシアの農地が飛躍的に拡大し、かつまたロシア人が精神的支柱を見出したという、物心両面での変化だ。
この時代、修道士たちは、静寂と祈りを求めて、昼なお暗い森や原野に分け入り、開墾して自給自足の生活をしながら修行した。その代表的な人物が、セルギエフ・ポサードの至聖三者聖セルギイ大修道院を開いたラドネジの聖セルギイ(1322頃~1392)だ。
モンゴルが宗教的には寛容で、正教会に免税特権を与えていたことも開墾を後押し、荒野修道院運動には、庶民も続々と加わるようになった。
統一国家の胎動
さらに開墾を加速したのが農業革命だ。この頃、西欧式の三圃式農業(三年輪作システム)と鉄製農具が導入され、生産性が飛躍的に高まった。
こうして正教会は、精神面でも物質面でも、分裂していたロシアの支柱となり、その権威は高まっていく。諸侯は教会にしばしば大規模な寄進を行い、一方教会は、府主教座をモスクワに移して、勃興しつつあったこの公国に支持を与える。
聖俗両面でロシア国家の骨格ができつつあったのがこの時代だ。
敵地で背水の陣
ドミトリー・ドンスコイは、モスクワ郊外のコロムナで諸侯の軍隊を集結させ、当時は敵地であったクリコヴォの野で、ドン川を背に背水の陣を布いた。これは、敵の騎兵による背後からの攻撃を防ぐ狙いもあった。
両軍それぞれ10万近くが激突し、当初は、ロシア側が圧され気味であったが、敵の隊形が伸びたところを伏兵で強襲し、潰走させた。ロシア軍の損害は2万、ママイ軍はほぼ全滅した。
この勝利は、モンゴル不敗の神話を砕き、ロシアに自信を与えるとともに、ロシア統一国家の黎明を告げるものともなった。
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