鉄格子の向こうでの発明:スターリン時代の囚人が考案した革新技術

 1930年代~1940年代のソ連では、多くの科学者がスターリン時代の粛清の嵐のなかで逮捕されている。しかし、科学者たちの潜在能力が失われないように、当局は、「シャラシカ」の通称で知られていた特別な場所に、科学者を集めた。これらの場所の多くは、後に有名な研究所になっている。ロシア・ビヨンドは、スターリン統治下に、「塀の向こう」で生まれた主な発明を3つ選んだ。

The Thing(盗聴器)

1952年になって初めて、飾り板に、初期の盗聴装置の一つであるThe Thingが仕込まれていたことが明らかになった。

 1945年8月、W.アヴェレル・ハリマン駐ソ連アメリカ大使は、ソ連のピオネール(少年団)の代表団からプレゼントを受け取り、官邸の書斎の壁に飾った。それは、米国の紋章が彫刻された木製の飾り板だった。第二次世界大戦における同盟国間の協力のクライマックスで、子供たちからもらったプレゼントだった。だから、ハリマンとその3代にわたる後継者たちの目を喜ばせ、大使公邸に7年間も飾られていた。

 ようやく1952年になって初めて、飾り板に、初期の盗聴装置の一つであるThe Thingが仕込まれていたことが明らかになった。これは、当時としては革新的な原理に基づいており、電源や能動的な電子部品がなかった。特定の周波数の無線信号を受信した場合にのみ、デバイスがアクティブになる仕掛けで、発見が非常に難しく、見つかったのはまったくの偶然だった。

 米国のスパイ道具には、こんな技術はなかったから、米国側はショックだった。これを設計したのは、ソ連の有名な発明家レフ・テルミン(欧米ではレオン・テルミン)だ。彼は最初の電子楽器の一つ、テルミン(またはテレミンヴォックス)の発明で、よく知られている。

 テルミンは、1930年代に米国に住んでおり、テルミンを普及させつつ、盗難警報システムの開発に取り組んでいた。1938年、彼はソ連に帰国したが、翌年に逮捕された。ソ連の大物政治家セルゲイ・キーロフの暗殺を準備したとの荒唐無稽な告発を受けたのである。

 このソ連高官が殺害されたのは、テルミンがまだ米国にいた1934年であるが、検察当局は、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の天文台に、無線で遠隔操作できる爆弾をしかけたと主張した。テルミンは、キーロフが天文台を訪れたときに、米国からの遠隔操作で爆弾を爆発させるはずだったというのだ。実際には、キーロフは、部下の一人の夫に、オフィスで射殺されたのだが。

 逮捕された後、彼は「シャラシカ」でスパイ技術の開発に携わった。そのうちの一つが名高いThe Thingであった。彼の発明は、収容所から釈放された1947年に、スターリン賞を受賞した。

 

急降下爆撃機「バット」

設計局「TsKB-29」、1940年

 テルミンは有名な設計局「TsKB-29」で刑期を務めた。それは内務人民委員部(内務省)の管轄下にあり、スタッフのほとんどが囚人だった。そのなかには、パイオニアの航空機設計者、アンドレイ・ツポレフもいた。シャラシカも、彼が来た後は、彼の名にちなみ、「ツポレフカ」と変わった。ここの主な任務は、新しい軍用機を開発することだったからだ。

 ツポレフは、1937年に逮捕、収監された。罪状は、サボタージュとスパイ活動。後に彼は、殴られはしなかったが、眠らされなかったと友人に語っている。その結果、彼は、10年以上もフランスのスパイをしていたと“自白”した。1940年には15年間の懲役刑を宣告されたが、大祖国戦争(独ソ戦)が始まった翌年夏にはもう釈放されている。

 長年服役している間に、彼は、急降下爆撃機「Tu-2」(NATOのコードネームは、コウモリを意味する「バット」)を開発した。これは、第二次世界大戦中の最も重要な爆撃機の一つとなり、あらゆる面で優れた設計であることを実証した。収容所で設計されたことを考えれば、「その成功は特筆に値する」と言われる。それは、第二次世界大戦中の主要なソ連製中型爆撃機であった。

 この爆撃機は、1952年まで、10年間にわたり製造された。Tu-2の生産数は約2 500機におよぶ。第二次世界大戦の終結後も、同機には「重要な経歴」があった。朝鮮戦争への参加だ。派生機のTu-2sは、後にワルシャワ条約機構の加盟国によって広く使用された。なお、ツポレフは、この爆撃機でスターリン賞を授与されている(1943年)。また、派生機や後継機により、彼は間もなく、さらに3つのスターリン賞を受賞。

 

抗ペラグラ因子ビタミン

レフ・ジリベル

 大粛清の時代には、スパイ技術のプロや航空機設計者ばかりが特別刑務所に入れられたわけではない。他の専門家たちも、シャラシカに収容された。例えば、有名なソ連のウイルス学者、レフ・ジリベルは、シャラシカで4年間を過ごしている。

 彼は同僚の内部告発に基づいて逮捕された。そして、モスクワの給水システムに毒を流そうと計画していたとして告発され、懲役10年の刑を宣告。

 最初、彼は森林伐採に従事し、その後は収容所の医師になった。収容所の病院で働いていた際に、彼はペラグラと遭遇した。これは、ビタミンB3の欠乏によって引き起こされ、皮膚炎や認知症の症状を呈する重篤な疾患だ。治療されない場合は、通常、死亡につながる。

 彼がいた収容所は北部地域にあったので、彼は、ビタミン源となる酵母を作るために、トナカイが食べる地衣類を使用し始めた――。後年、彼はこう回想している。これが、彼の薬「Antipellagrin」の基礎となった。

 彼はどうにか臨床試験にこぎつけたが、薬は、彼の名前ではなく、内務省の名において投与された。

 その後、ジリベルは、秘密の研究所の一つに移され、そこで、癌のウイルス性に関する自説に取り組んだ。釈放の2年後の1946年、彼もまた、テルミンやツポレフと同様に、脳炎に関する著書で、スターリン賞を受賞している。

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