ブリヤートのラマ僧のミイラに起きる不思議:腐敗せず、汗をかき、体重が増える…

ダシ=ドルジョ・イチゲロフ(1852年~1927年)

ダシ=ドルジョ・イチゲロフ(1852年~1927年)

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 ブリヤート族出身のラマ僧の指導者、ダシ=ドルジョ・イチゲロフ(1852年~1927年)は、公式記録では、ちょうど90年前に死亡している。しかし、入滅する際に、「30年たったら私の体を掘り出してほしい」と言い残した。掘り出されたラマ僧の遺体には、不可思議なことがいくつも起きた。

 今からちょうど90年前、ラマ僧の指導者、ダシ=ドルジョ・イチゲロフは、結跏趺坐を組み、弟子たちを呼び集め、自分のために祈るように頼んで、瞑想に入り、入滅した。「30年たったら、ここにやって来て私の体を見てほしい。そして75年後には地中から掘り出してくれ」。入滅の前に、イチゲロフはこう言い残した。

 彼の体は、遺言通り、結跏趺坐を組んだ姿勢のまま、セイヨウスギの箱におさめられ、塩がつめられた。イチゲロフの遺体の鑑定が最後に行われたのは、2005年のこと。以後、ラマ僧たちは、いかなる調査も写真撮影も、厳しく禁じている。

 …その遺体は、ほぼ1世紀にわたり体重が増え、また、ときおり水分を滲出させてきた。通常の死体のように腐敗もしなかった。

ロシアの名高い高僧はどんな人物だったか

 ダシ=ドルジョ・イチゲロフは、現在のブリヤート共和国(モスクワの東4426キロ)のウルズイ・ドボに生まれた。両親がどんな人物であったかについては、歴史は沈黙している。唯一たしかに知られていることは、少年時代に早く両親を失ったことだ。これが時とともに、その神秘的な誕生についての伝説を、ラマ僧たちの間に生むことになった。少年はこの世に、5歳の童子の姿で現れた。これは、仏陀と菩薩にしかあり得ぬこと、というのだ。

 いずれにせよ、孤児となったイチゲロフは、牧童として働き始めたが、墓や葬具に関心をもっていたという。たとえば、家畜を墓場に追い込んで、死者たちと「遊んでいた」。つまり、死者の髪の毛を抜いて、こんなことを語りかけた。「私の言うことをちゃんと聞いていたら、死んでここに横たわることはなかっただろうに」

 ちなみに、当時のブリヤート族は、棺を用いず、ふつう、地中に遺体を埋めることもなかった。木々や丘の間に板張りの低い台を設け、そこに安置したのである。

 また、あるときイチゲロフは、杖の頭に髑髏をつけて、それをもって人々の前に現れた。「この少年は偉大な師となるだろう。少年は死神を欺く定めだ」。彼を知るラマ僧はこう言った。

 ラマ僧たちに知られている、イチゲロフに関する伝説には、信じがたい事柄が多く含まれている(彼の前で、水が左右に分かれたというような)。しかし確かなのは、15歳のときに、故郷から300キロの距離にある寺院(アニンスキー・ダツァン)に行き、仏門に入り、仏教とチベット医学を学んだことだ。やがてラマ僧を教え、指導するようになる。

 ロマノフ王朝300年記念祝賀会に招かれて出席し、ヨーロッパ初の仏教寺院「グンゼチョイネイ・ダツァン」を首都サンクトペテルブルクに建立。皇帝ニコライ2世にも拝謁している。

 こうして第一次世界大戦前夜には、東シベリアの仏教徒の指導者となっていた。

 しかし、無神論を掲げるソビエト政権が成立すると、イチゲロフは、ラマ僧たちに国を去るように勧める。大量の逮捕、弾圧を見越してのことであった。が、自身はロシアにとどまり、こう断言した。「私の逮捕は(私の死までに)間に合わない」。公的書類によれば、イチゲロフは、1927年に75歳で亡くなっている。

イヴォルギンスキー・ダツァン、ブリヤート共和国

「亡くなって数時間しかたっていないような体」

 入滅後、イチゲロフの遺体を初めて検分したのは、遺言通りの30年後ではなく、28年後であった。というのは、この年、ブリヤート共和国は暴風に見舞われたため、イチゲロフに救いを求める祈祷を執り行うことにしたからである。

 箱が開けられると、遺体の関節は柔軟に動き、肌は弾力を保っており、心臓の近くには温かみが感じられた。祈祷を終えると再び、衣を新しいものに替えたうえで、地中に埋め戻した。1973年にも同じことが行われている。

 2002年、すなわち入滅後75年の遺言の年、イチゲロフの遺体をおさめた箱は、地中から掘り出され、イヴォルギンスキー・ダツァン(ブリヤート共和国の首都ウラン・ウデ近郊の仏教寺院)に運ばれた。その日は終夜、箱の蓋は開けられず、ラマ僧たちは祈祷のみを行い、護摩を焚いた。

 翌朝、法医学専門家が到着し、箱が開かれた。塩が肩の高さまで詰まっており、イチゲロフの顔は、目撃した人たちの証言によれば、生けるがごとくであった。「内臓は正常で、目も正常。最近訪れた専門家によると、数時間前に亡くなったばかりのような状態だった」。こう語るのは、パンディト=ハンボ・イチゲロフ研究所のヤンジマ・ワシーリエワ所長だ。

 ただし、鑑定の際、誰も胸に聴診器を当てなかった。ラマ僧たちは、鑑定のために計2ミリグラムのサンプル、すなわち体毛、皮膚、爪を送ることを許可。「赤外分光法により、タンパク質成分は、生体の特徴があることが示された。比較のため、職員から同様のサンプルを採取した。...棺を開けた時点で死臭はなかったし、現在もない」。ロシア法医学センター・身元確認課のヴィクトル・ズヴャーギン課長(当時)は、鑑定をこう結論付けている

 とはいえ、これは、イチゲロフが今なお生きていると主張する根拠にはならない。皮膚の分析では、体内に基準の40倍の臭素が検出されている。また体温は20度以下で、死亡の絶対的な兆候だ。

 無論、ラマ僧たちはその逆を主張する(ただしダライ・ラマ14世を除いて。彼はコメントを避けている)。イチゲロフのもとに巡礼する何千、何万もの人々も同様だ。ましてや、次のような不可思議なことも起きているのだから。

 棺から取り出された後、その体重は毎年2キログラムの割合で増え続け、計6年間で約10キログラム増加した。時には、イチゲロフの体に過剰な湿気が生じ、汗を連想させる。

 しかし、科学者たちは、これらの現象について非宗教的な説明を見つけた。高濃度の臭素は、マメ科植物に存在する。臭素は生物の感受性を抑制し、外部からの刺激の受容を制限するが、呼吸と血液循環を司る脳の領域には、ほとんど影響しない。

 これにもとづいて、科学者たちは次のような仮説を立てた。すなわち、イチゲロフは生前、意図的に豆を多く食べ、そして自己催眠の助けを借りて、自分の身体における重要な生物学的エネルギー交換の機能を切断した。言い換えれば、深い瞑想に沈み込み、仮死状態に至った後で、死亡した。塩または乾燥した組織は、水蒸気を吸収するので、外気に触れると、体重に影響する可能性があると。

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