ロシアの源流としてのキエフ:事実か虚構か?

古代の年代記は、キエフを「ルーシの諸都市の母」と呼んだ。

古代の年代記は、キエフを「ルーシの諸都市の母」と呼んだ。

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 古代の年代記は、キエフを「ルーシの諸都市の母」と呼んだ。キエフは、「ルーシ」(ロシアの古名とされてきた)の他の都市、集落に優越しているという意味で。しかし、現代ウクライナでは、「ルーシ」という言葉は、どうも具合が悪いようだ。

 現代ウクライナの政府と急進的な勢力は、あらゆる「ルーシ」、「ロシア」から距離を置こうとしている。そして同様の試みを、歴史の分野でも行いつつある。そうすることで、彼らが創り出しつつある観念はしばしば、伝統的なスラブのパラダイムで教育された人々を驚かせる。

 最古のロシア年代記「過ぎし年月の物語(原初年代記)」には、こう記されている。「オレグはキエフに居を構え、支配し、こう言った。『これをルーシの諸都市の母としよう』」

 年代記の描くところによると、古代ルーシの最初の支配者の一人であるオレグ公(生年不詳~912年/922年)は、キエフを、9世紀後半に確立されたばかりであった、東スラブ諸部族の国の首都と定めることに決めた。

「キエフ大公オレグの歌」、ヴィクトル・ヴァスネツォフ絵

 オレグは北方より、すなわち、東スラブ諸部族の国の揺籃の地であるノヴゴロドより、南下してきた。キエフを占領したオレグは、両都市を統一し、それが、後に年代記作者が「ルーシ」と呼ぶことになる地域を形成した(「キエフ・ルーシ」という用語が歴史家によって作られたのは、ようやく19世紀のことだ)。

 そこに住んでいた人々は「ルースキエ」(「ルーシ」の形容詞、つまり「ルーシの人々」の意味)と呼ばれていた。これは、現代ロシア人の呼称と同じだ。「ルースキエ」とその派生語は、何世紀にもわたって、古代ルーシの領域に住んでいた人々を指して使われた。人種、民族としての「ロシア人」のみを意味したわけではない。

 ソ連時代の歴史家やイデオロギー政策担当者は、様々な民族グループの感情に非常に敏感だった。しかし、「ルーシ」と「ルースキエ」は、現代ロシア人と直接関係していないので、問題とされることはなかった。

 ソ連時代の教科書に歴史的事実として記されていたのは、だから、「キエフ・ルーシ」は東スラブの最初の国であり、いわゆる「古代ルーシ人(ルースキエ)」の揺籃の地であるということだった。そして後に、近世、近代になって、この古い「超民族」が、現代のロシア人、ウクライナ人、およびベラルーシ人を誕生させたとされていた。

 

「ウクライナ・ルーシ」

「大公の屋敷で」、アレクセイ・マクシモフ画

 ロシアでは、こうした歴史解釈がだいたいそのまま残っている。ところが、隣国ウクライナでは、ロシア人との過去の共有と、歴史資料に「ウクライナ」ではなく「ロシア」という言葉がより多く見られることが、多数の人々に不安を感じさせるようだ。

 現在のウクライナにおける公式の史観によれば、現代のウクライナ人が、古代国家(キエフ・ルーシ)の首都を占めているという単純な事実に基づいて、キエフ・ルーシは、原初ウクライナ国家であったと主張される。

 したがって、キエフ・ルーシの公たちは、ウクライナの公ということになり、古代のキエフは、ウクライナの首都であった、ということになるわけだ。

 だから、結局、古代ルーシは、ウクライナであったという主張が、ここから出てくる。こうした史観は、歴史の新造語「ウクライナ・ルーシ」に顕著だ。この用語は、古代ルーシと現代ウクライナの直接的なつながりを誇示している。

 さらにウクライナでは、ロシアはキエフ・ルーシの歴史とは何の関係もないと主張する者さえいる。ロシアは12世紀半ばに現れた北方の国であるという。

 もっとも、この「説」には、中世においてキエフの支配的地位が低下していったことが反映してはいる。すなわち、国の中心が、キエフからウラジミールに、さらにモスクワへと、北に移っていったことだ。

 この説によると、くだんの北方の人々は、キエフ・ルーシとは無関係であり、主にフィン・ウゴル系民族の系統だという。そして、13世紀にタタール(モンゴル帝国)が、彼らの領土に侵入し、この現代ロシア人の祖先を征服した。だから、タタールの影響を強く受けている、という筋書きだ。

 だがタタールは、キエフとその周辺にも侵攻し、荒廃させている。その結果、侵略者に敬意を表すために、長年にわたり貢納を余儀なくされたわけだが、この事実は通常無視される。

 

「ロシア人が我々の歴史を盗んだ」

ウラジーミル大公像

 また、ロシアはウクライナから、こう非難される。ロシアは、ウクライナからキエフ・ルーシの遺産を盗んで、あたかも自分たちのものであるかのように見せかけ、その際に、ウクライナから国の記憶を奪った、と。

 こういうアプローチは、単にキエフ・ルーシの歴史を私物化し、過去に共有されていた歴史からロシアを除外しようとする試みであると言わざるを得ない。

 これはラディカルな歴史の見直しだから、それに関連してすでに多くのスキャンダルが起きていることは不思議ではない。

 昨年、ウクライナのペトロ・ポロシェンコ大統領は、モスクワに「私たちの」(つまりウクライナ人の)の大公、ウラジーミル1世の記念碑が建てられたと、公然と述べた。

 ウラジーミル1世は、ウラジーミル聖公とも呼ばれ、988年に、キエフ・ルーシにキリスト教を導入し、国教とした。ウラジミールは、ロシア正教会によって、13世紀に列聖されている。

 似たようなスキャンダルは、プーチン大統領が、キエフ・ルーシの公女の一人を「ルースカヤ(ロシアの、ロシア人の)」と呼んだときに、キエフでも起きている。プーチン大統領が言及したのは、キエフ大公ヤロスラフ1世の娘アンナのことで、彼女はフランス国王アンリ1世の妻となった。

 

「反ウクライナの歴史家」

ピョートル・トロチコ歴史家は、昨年キエフで本を出したのだが、そのプレゼンテーションが、ウクライナ民族主義者らによって妨害された。

 広く承認されている歴史的事実を無視した「物語」は、ウクライナにおいてさえも、幾人かの尊敬すべき歴史家にとっては、魅力がないようだ。これらの歴史的事実は、当該地域の学校でかつて歴史の授業を聞いた人々の大多数によって受け入れられていた。

 そうした歴史家の一例が、考古学研究所所長であるピョートル・トロチコだ。彼は、昨年キエフで本を出したのだが、そのプレゼンテーションが、ウクライナ民族主義者らによって妨害された。この本は、古代ルーシの起源に関するもので、トロチコは、3つの東スラブ民族共通の発祥地としてのキエフ・ルーシについての、伝統的な解釈を支持している。

 民族主義者らは、トロチコを「反ウクライナ主義者」と呼び、ウクライナ人の存在そのものを否定していると非難した

 トロチコは、ウクライナ人を、一方で現代の民族的、文化的な見地から、他方で遠い過去のなかに、探し求めることは、そもそも無理な話であると述べたのだが、この発言を聞いて、民族主義者らは、「反ウクライナ主義者」と決めつけたのだった。

 しかしトロチコによれば、キエフ・ルーシをウクライナ国家と呼ぶことはできない。なぜなら、キエフ・ルーシの広大な領土は、北はノヴゴロドから西はカルパティア山脈、そして東は、ヴォルガ川とオカ川の流域にまで広がっていたからだ。この領域の大半は、現代ロシアの版図の中にある。

 トロチコは、後にモスクワ公国となった地域の歴史をキエフ・ルーシから切り離して考えることは根本的な間違いだと強調している。なぜなら、どちらの地域も、リューリク朝の支配者を共有していたからだ。双方の支配者は、近親の関係にあった。

 重要なことは、古代ルーシの支配者が互いの近親関係を認識していたこと、ルーシという統一体の理念が、あらゆる古代ルーシの(ルースキエの)の年代記に見られるライトモチーフであった、ということだ。

 トロチコは、ウクライナにおける歴史の神話化の傾向を憂慮している。その影響は、一般の学校や大学の教科書にすでに反映されているという。

 

*この記事は、ロシア・ビヨンドのシリーズ「ロシア史における神話」のうちの一つである。

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