「これはまた何という『フィリカの文書』だ!」。なんて誰かが憤慨しているのを聞いても、心配しないように。「フィリカ」なる人物あるいは機関が、ロシア語の新ルールを導入したのか、と思うかもしれないが、そういうことではない。
ロシア語辞典によると、教養のない愚かな人間が「フィリカ」と呼ばれた。したがって、「フィリカの文書」は、間違いや不備のある文書ということになる。一節によると、この表現は、16世紀のイワン雷帝(4世)の治世に現れた。その理由は、ツァーリとモスクワ府主教フィリップ2世の対立だという。
この聖職者は、オプリーチニキ(雷帝の親衛隊)による横暴、粛清に反対し、これを廃して処刑を止めるようツァーリに求めた。だが、イワン4世は断固斥けた。そして1568年、リヴォニア遠征から戻った雷帝は、モスクワのクレムリンの生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)に礼拝に赴いた。
意外にも、フィリップ2世はツァーリを祝福することを拒否し、無辜の血を流したとして彼を公然と非難した。雷帝は怒り、府主教とその追随者が「泣き言を並べるようにしてやる」と言い放った。
しかしフィリップは、そんな臆病者ではなかった。間もなく彼は、ノヴォデヴィチ女子修道院における十字行の際に、教会が着用を禁じていた丸い椀型の帽子をかぶったオプリーチニキ隊士を見て叱責した(*十字行とは、奉神礼〈カトリックの典礼に相当〉として聖堂外で行われる行列・行進)。
これが雷帝の我慢を破る「最後の一滴」となった。雷帝の激怒は度外れだった。すぐにオプリーチニキらが礼拝中の教会に乱入し、府主教の祭服を剥ぎ取り、殴打して、彼の「罪状」を読み上げた。しかし、それだけではなかった。ツァーリの手先たちがフィリップの甥を殺害し、その生首を彼に投げつけた。
フィリップは、オトロチ生神女就寝(ウスペンスキー)修道院に追放された。しかし、そこから彼はツァーリに書簡を送り、オプリーチニキの廃止を要求。雷帝は頑なで、府主教を「フィリカ」と、その書簡を「フィリカの手紙」と侮蔑的に呼んだ。
1年後、フィリップ2世は死体で発見された。一説によると、オプリーチニキの隊長マリュータ・スクラートフによって絞殺されたという。