革命前のロシアでは、基本的に、ペチカ(ストーブ)で暖められた部屋(または部屋の一部)は、すべて「イズバー」と呼ばれていた。皇宮の部屋でさえ、そう呼ばれることがあった。
たとえば、「正面のイズバー」は、宮殿の男性客が最初に入る部屋であり、「離れたイズバー」はトイレだ。だから、ロシアでは農民もツァーリも、イズバーに住んでいたわけだ。
また一軒家も、イズバーと呼ばれることがあり、その中央部(つまり、丸太小屋の四角い囲い組み)は、「クレーチ клеть」といった。「クレーチ」が地面の上ではなく、木または石の土台(地下室)に立っていて地階がある場合は、「ゴールニツァ горница」と呼ばれた。
オープシチナとは、農村共同体の一形態だ。これはミールとも言い、ロシア革命前の正書法では、「мiр」と書いた。真ん中の文字が「и」ではなく、「i」だ。この文字は教会スラヴ語では数字の10を表した。これは別のミール(мир)(平和、敵意や争いのない状態)と区別するためだった。
オープシチナは、その成員に対して共同責任を負い、成員のなかから代表者を選び、成員にかかわる問題を合議で解決することができた。
1917~1918年の革命でボリシェヴィキ政権が生まれたが、彼らの主な社会的目標の1つは、この共同体システムの破壊だった。古来の農民集団主義の基盤そのものを根絶するためにそれは必要だった。
ロシアでは、住民の集会は、ヴェーチェと呼ばれた。「民会」などとも訳される。ヴェーチェは、社会生活の差し迫った問題を討議するために召集された。要するに、ヴェーチェは直接民主主義の機関だ。
そこには「ムージ муж」が出席した。これは、自由な家族の長であり、その声の重みは、社会的地位によって決まった。
ちなみに、ヴェーチェという言葉からソビエト(ソヴェート)(совет)という、会議を意味する別の言葉が派生した。
ロシア統一国家の形成後、しばらくの間「ゼムスキー・ソボルЗемский собор」(全国会議と訳される)が活動した。これは中世の身分制議会であり、国の主な問題を解決するために、すべての地域から召集された。
ゼムスキー・ソボルは、ツァーリを選出、承認したり、義勇兵招集を宣言したり、国の重要文書を採択したりした。そうした重要文書としては、たとえば、1550年のイワン雷帝(4世)法典や1649年の「会議法典」などがある。
スラヴ人においては、部族の指導者はクニャージ(公)と呼ばれた。彼は部族、氏族の長だ。時とともに、初期の封建国家はクニャージェストヴォ(公国)、その長はクニャージ(公)と言うようになる。公は軍司令官であり、その軍は、襲撃や略奪から住民を守った。公は、訴訟の主な仲裁者であり、宗教的指導者でもあった。
社会と国家の発展にともない、公国を率いる大公が現れる一方、分封諸公が出現した。これは、重要度、勢力が公より小さい支配者で、自分の公国をもたないことも多く、大公に仕えていた。
イワン雷帝(4世)は、ツァーリとして戴冠した、モスクワ大公国の初の大公だった。こうしてロシア・ツァーリ国とツァーリが誕生し、彼に比して他のすべての公は、完全に格下となった。
公の軍隊は、ドルジーナ(「друг 友達」から派生)と呼ばれていた。「親兵」と訳されたりする。当初、ドルジーナには、公の親しい友人や仲間、同志が含まれていた。彼らは、仲間であるだけでなく、軍民両面で公の相談役でもあった。
しかし、12世紀以降、ドルジーナは分割された。「最高の」ドルジーナには、ボヤーリンが入っていた。これは、公の最も身近な友人や相談役で、戦いにおいては必ず公とともにあった。「戦い бой」から「ボヤーリン боярин」の語は派生している。
より多数からなる親衛隊、近衛兵は、「若い」ドルジーナと呼ばれた。この部隊は、戦闘、遠征にも参加したが、会議や支配には関与しなかった。
公が死ぬと、ドルジーナは、解散することもあれば、公の跡継ぎ、または戦いに勝った方に付くこともあった。
しかし、モスクワ公国の形成、興隆にともない、ドルジーナは、ボヤーリンの組織に取って代わられ、存在しなくなった。
コローメンスコエにあった木造宮殿
D. Sukhovホロームイというのは、大きな木造邸宅で、数多くのクレーチ(丸太小屋の四角い囲い組み)からなり、それらが渡り廊下で接続されていた。ホロームイに住むのは、ツァーリ、ボヤーリンなど、とくに社会的地位の高い人だった。
建物が石造なら、それはもはやホロームイではなく、パラートゥイといった。
ホロームイには一定の型、設計はなかった。建造物がユニークであればあるほど良いと考えられていた。たとえば、ツァーリや公のホロームイは、絶えず建て直されたり建て増しされたりしていた。こういう相対的な無秩序と絶え間ないリフォームは、支配者の力と富を示すのが目的だった。
現代ロシア語では、リャードは、「列」などと訳され、ひとつながりの、一連の物質、現象の意味だ。しかし、古代ロシアでは、この語は「契約、合意」を意味していた。「秩序」(порядок)が、この語根から生まれたのはそのためだ。また、契約、合意に関連する数十の名詞がそれから派生している。
たとえば、リャードを明記した文書は、「рядная грамота」(契約書)と呼ばれた。
リャードは、社会的に対等な人々が結ぶこともあれば、公とそのドルジーナ(親兵)、公と支配下の住民が結ぶこともあった。さらには、都市間、地域間で結ばれることもあった。
リャードは通常、「ポースルフ послух」(証人、立会人)のもとで結ばれ、その名も契約書に示された。
古代ロシアのクロームという言葉は、敵から身を守るために造られた要塞だ。これは、ロシア語最古の単語の一つで、インド・ヨーロッパ祖語の「*kʷrom」(柵、囲い、またはそれらで囲まれた場所)にまで遡る。
有名な「クレムリン」の語源もクロームだ。古代ロシアでは、要塞はクレムリンと呼ばれた。ちなみみに、古代、中世の要塞のなかには、いまだにクロームと呼ばれるものがある。例えば、プスコフの人々はその要塞を「クレムリン」ではなく「クローム」と言う。
古代ロシアでは、位の高い人、金持ち、貴族などはみなバーリンと呼ばれた。「お偉方」といったところだ。この言葉は「ボヤーリン」から来ている。
しかし、上に述べたように、ボヤーリンと呼ばれるのは、公の主宰する会議、評議会のメンバーだけだった。そのため、ボヤーリン以外の貴族など、社会的地位の高い人には、バーリンが使われた。
農奴制の到来とともに、農民を所有する土地所有者は、みなバーリンと呼ばれるようになった。
この言葉からさらに、「バールシチナ барщина」(賦役)という言葉も生まれた。これは、農民が主人のため行う義務のある、ただ働きの仕事だ。
古代ロシアでは、小銭はコペイカと呼ばれた。その相対的価値は常に(今日にいたるまで)、ルーブルの1/100だ。
1535年以来、ロシアでは貨幣が鋳造され始め、その表面には聖ゲオルギー(ゲオルギオス)が描かれていた(口語では「エゴリー」、「騎士」、「騎手」などとも呼ばれた)。聖ゲオルギーは、槍(コピヨーкопье)を持っており、ここからコペイカの語が生まれた。
通貨単位としてのコペイカは、ロシア人にとって常に特別な意味を持っていた。「1コペイカの倹約でも貯まればルーブルになる→塵も積もれば山となる」«копейка рубль бережёт»という諺があるのは偶然ではない。ロシアには、コペイカの記念碑がいくつかある。
*もっと読む:お金に関するロシアの諺12選:たかがお金、されどお金…
今日では、コペイカが支払いに使われることはほとんどないが、これが通貨流通から外されることはない。
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