イワン・クリコフ『農民の家屋にて』
Public Domainかつてロシアの人口の大半は農民や職人、兵士、商人、猟師などだった。彼らは皆何世紀にもわたってだいたい同じものを食べてきた。
最もよく食べられた料理をクローズアップしよう。
800年以上前のロシア人はまだキャベツを知らなかった。彼らは、ヘレニズム世界で普及してビザンツ帝国からルーシに伝わったケールを食べていた。我々の知るキャベツがロシアに登場したのは12~13世紀頃のことだ。
ロシア人はキャベツの両方の「部分」を食べた。球を覆う葉は「灰キャベツ」、球自体は「白キャベツ」と呼ばれた(どちらも同じキャベツなのだが)。
キャベツは単純な技術を使って塩漬けにした。冬の保存食だ。灰キャベツを刻んで塩を振り、樽や小型の木製桶に詰め込んだ。ガスを抜くため、最初の3日間にキャベツに穴を開けた。それからもう一度刻んで潰し、重しを置いて蓋をし、冬用に取っておいた。樽一つ分のキャベツがあれば、冬の間ずっと家族全員分のシチー(キャベツのスープ)を作ることができた。
白キャベツの発酵のさせ方は少し違った。レモンやアニスを加え、特別な祭りの際にはサフランを入れることもあった。もちろん農民が常に高価で入手困難な具材を持っていたわけではない。しかしこれがツァーリの食卓用のキャベツの塩漬けなら、レモンやサフランを手に入れる道は開けた。皇室直属の村(例えばコロメンスコエ村)の農民は、ツァーリの食卓用に白キャベツを用意しなければならなかった。キャベツは農民の間だけでなく、ツァーリにも人気の食材だったわけだ。
この料理はライ麦(あるいはオート麦)の粉から作られ、ロシア語では「トロクノー」(「挽いたもの」の意)と呼ばれた。まずライ麦を窯に入れて一晩置く。こうすればライ麦の蛋白質が変性し、こうして作られる粉はグルテンを作る能力を失い、水に入れるとよく膨らんですぐに粘っこくなる。ライ麦はすべての部分を残したまま手作業で粉にする(製粉機で挽く場合、穀物の外側の部分は栄養価が高いにもかかわらず、たいていごみとして捨てられてしまう)。
挽かれた粉は後で水を加えてもちもちでべたべたした食べ物にすることができた。「トロクノー」が移動中にライ麦粉から作れる点は重要だった。カーマが19世紀末まで遠征先のロシア軍兵士の間で人気の食品だった所以だ。
ロシアで一般に「黒パン」と呼ばれるサワードウ・ライ麦パンは、ロシアの農民の主食であり、ファストフードでもあった。民族誌学者ドミトリー・セミョーノフは1869年にリャザン県の農民の栄養状態についてこう綴っている。
「ライ麦パンは品質が良い。時々調理の際の不手際によって胃もたれがすることもある。祝祭日にはライ麦粉に小麦粉を混ぜて焼いて作る」。
サワードウ・ブレッドは酵母を入れて焼いたパンとは異なる。普通のパンよりやや保存が利き、ファストフード(例えば長い畑仕事の合間の間食)には欠かせないものだった。黒パンは頻繁に焼かれ、週に一、二度作られた。
ロシア人はいろいろな具材を入れてカーシャを作った。蕎麦、オートミール、大麦、スペルト小麦が最もよく使われた。カーシャは濃い粥と薄い粥の2種類に分かれた。
ロシアの伝統的な社会では、カーシャは結婚式の定番料理だった。11~12世紀、「カーシャを作る」は結婚式の宴会を催すことを意味した。カーシャは産婦の儀礼食であり、子供の洗礼の後に客人に振る舞う料理でもあった。ロシア軍ではカーシャはほとんど食事と同義語だった。軍の炊事番はたいてい「カシェヴァール」、つまり「カーシャを煮込む者」と呼ばれた。
トヴォローグは多くの人にとってあまり美味しそうには見えない白い物体だ。しかしロシアの農民にとっては主要な栄養源の一つだった。もちろん牛を飼っていたか、あるいは乳製品を手に入れられた者だけのご馳走だったが。意外にもロシアの農民は牛乳を飲まなかった。
「牛乳やサワークリームはどちらかと言えばシチーやカーシャの調味料だ」とドミトリー・セミョーノフは記している。
「サワークリームを食べることもあるが、たいていは凝乳にして、週末より祝祭日の料理としてスクランブルエッグのように供される」。
農村では凝乳は発酵させた牛乳から作られた。ガーゼの袋に入れて吊るすことで凝乳から乳清(牛乳を凝固させた際に残る液)を分離していた。
凝乳はロシアの農民の食卓で最も栄養価の高い食品だった。蛋白質とカルシウムに富み、ビタミンも多く含む凝乳は、牛乳よりも栄養分が豊富だ。ロシアの農民が牛乳を飲まずに凝乳にしていたのは、栄養を無駄にしないためだったわけだ。
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