戦時厨房:第二次大戦時ソ連兵は何を食べていたか

セルゲイ・バラノフ撮影/Sputnik
 戦時中、調理師たちは兵士に高カロリーで多様な食事を出すために発明の才を発揮した。彼らがどんな知恵を絞ったかお話ししよう。

 戦時中、兵士の食事はいわゆる「野戦厨房」で調理された。これはパンを焼くための「野戦パン焼き場」と同様に、19世紀末にはすでに現れていた。野戦厨房は移動式の車体かトラックの荷台に載ったトレーラーのような外見だった。厨房は、いくつかの釜(1〜4つ)と、食材や調理器具をしまうためのコンパートメントから成っていた。

 野戦厨房の釜は薪で焚いていたが、煙突から出る煙が敵に見えないよう、食事は夜明け前の早朝か、辺りが暗くなった晩に作られた。釜の水は40分で沸騰し、2品から成る昼食は3時間、夕食は1時間半で作られた。夜の厨房は慌ただしかった。食材の準備で例えばジャガイモの皮を剥いたり、釜の汚れを洗い落としたりしていた。ちなみに戦争の初期は、調理師の大部分が女性だった。

 食事の配給もまさしく試練だった。兵士らは身を危険に晒しながら食事の入った重い釜を引きずり、厨房から他の兵士のもとへ塹壕伝いに届けた。

 戦時厨房の主菜はクレシュ、すなわちキビのスープで、他の具材(例えば豚の脂や野菜など)が加えられることもあった。また野戦厨房では、皆が愛するロシアのスープ、ボルシチとシチーを作ったり、ジャガイモを蒸し煮したり、煮るか蒸すかした牛肉あるいは缶詰め食品と一緒にソバの実を炊いたりもした。

1日の配給量

 1941年9月12日に制定された兵士の1日の食事の規定では、赤軍兵士や野戦軍の戦闘部門の指導者が摂取すべき食品のリストが定められていた。その内訳は、パン(30㌘)、小麦粉(20)、肉(150)、魚(100)、総合油脂と豚の脂(30)、植物油、砂糖、茶、塩、野菜(ジャガイモ、キャベツ、人参、ビート、玉ねぎ、葉物)だ。面白いのは、タバコ(日に20)とマッチ(月に3箱)の配給にも規定があったことだ。喫煙しない女性には、追加でバター、クッキー、チョコレートが配給された。

 パイロットにはより高カロリーで多様な食事が与えられていた。彼らには、他のものに加えて、新鮮な牛乳あるいはコンデンスミルク、カッテージチーズ、スメタナ、卵、バター、チーズ、果汁エキス、ドライフルーツが与えられた。

 水兵や潜水艦乗組員の配給量も異なっていた。彼らには赤ワインやザワークラウト、キュウリの塩漬け、生の玉ねぎが出された。これらの食材は、壊血病を予防し、酸素不足を補うためのものだった。水兵には乾パンが配給された。小さな艦船の場合、パンは陸上で焼くこともあったが、大きな艦船には専用のかまどが備え付けてあった。

 終戦前には食事の状況が悪化し、規定量は削減された。

ニンジン茶とトウモロコシ粉レピョーシカ

 調理師らは、終戦前にはずいぶん侘しくなっていた兵士の食事をできる限り多様にするよう努力していた。例えばニンジン茶を作った。これを作るには、皮を剥いたニンジンを擦り下ろし、カバノアナタケとともにコンロで炒め、熱湯を注げば良かった。ニンジンのおかげで茶はほのかに甘くなり、またカバノアナタケのおかげで程よい暗色を帯びた。

 「ルジェフスキー」というパンのレシピも残されている。このパンを作るために、まずジャガイモを茹で、皮を剥き、肉挽き器で細かくした。できた塊を、糠を敷いたまな板に載せ、塩をかけて素早く生地を練り込んだ。そしてできた塊を、油を塗った型に押し込み、オーブンで焼いた。

 戦争が終わりに近づいた1944年、ソ連軍は同盟国からコーンミール(トウモロコシ粉)の供給を受けた。調理師の中にはこれを持て余す者もおり、パンに加えてみたは良いが、パンがぱさぱさになってすぐに硬くなってしまい、激怒した兵士らが調理師を罵るという事態も起きた。しかし、レピョーシカを焼くことを思いついた者もいた。退役軍人の一人は、調理師が兵士らを平原に遣って草(アカザ、スイバ、ウマゴヤシ、ラムソンなど)を採集させ、それからこれらの草とコーンミールを使ってピロシキを焼いてくれたことを回想している。のちにはママリガ(モルドバの民族料理)という、しっかり煮て練ったコーンミールの粥も作られた。この粥はナイフで切り分けられるほど濃厚だ。

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