ショスタコーヴィチ、画像提供:タス通信
ショタスタコーヴィチの場合
独ソ戦を代表する音楽作品といえば、ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」だが、実はこの曲、構想され始めたのは戦前で、スターリンによる粛清の嵐のなかでのことだった。作曲開始は、1941年夏、レニングラードにて。世界初演は、クイビシェフ(現サマーラ)で、サムイル・サモスードの指揮、同地に疎開していたボリショイ劇場管弦楽団により行われた。8月9日には、包囲下のレニングラードでも演奏される。
ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」
ショタスタコーヴィチにはもう一つの「戦争交響曲」つまり第8番があり、43年にモスクワで書かれ、初演されたが、この名曲は当局には不都合であった。その悲劇的な大フレスコ画は、勝利とヒロイズムという時代のパトスに合わず、当局も批評家も落胆させた。そのため、初演後、ソ連では長年にわたり演奏されなかったのである。
一時的和解
作曲家ハチャトゥリャン、画像提供:ロシア通信
戦時中、一時的に批判、対立が止んだように見えたのは、音楽と当局だけではない。音楽と一般大衆との関係、さらには様々なジャンルの間の関係にも、似たことが起きた。19世紀のヨーロッパとロシアのロマンティックなオペラの抜粋や、ショパン、スクリャービンの曲が、巷のロマンス、民謡、軍隊マーチ、歌謡曲などとごたまぜになって、街の舞台や前線で奏でられた。要するに、ロシア革命後の20年代に初めて起きたようなことが、再び起きたわけだ。エリートと大衆のジャンル、演奏家と聴衆が接近し、混ざり合ったのである。
その結果、新たな音楽グループが組織され、新たな音楽学校、音楽院も開校した。軍楽隊および軍と市民の合唱団は大車輪の活躍。クラシック音楽の作曲家も、手を休める間もなく、マーチと軍歌を書きまくった。
戦時に書かれたオペラ、オラトリオ、交響曲の大多数が、歌に乗るようなメロディアスな旋律に満ちていたが、その意味で、ショタスターヴィチは最も成功した作曲家の一人であったろう。彼の作る歌は、以下のような作曲家たちとならんで最高の人気を誇った(彼らは、もっぱら歌謡専門で、交響曲など書いたことがなかった)。すなわち、アレクサンドル・アレクサンドロフ、マルク・フラドキン、アナトーリ・ノヴィコフ、マトヴェイ・ブランテルなどで、「聖なる戦い」、「ドニエプルの歌」、「ヴァーシャ・ヴァシレク」、「暗い夜」などの流行歌を送り出した。
「聖なる戦い」
戦時のドイツとソ連の大衆音楽にはいろいろ似たところがあるが、後者の特徴は、詩的な叙情性と抑制された悲劇性だ。
プロコフィエフの場合
作曲家プロコフィエフ、画像提供:タス通信
このようにショタスターヴィチが大成功したとすれば、セルゲイ・プロコフィエフのほうは正反対だった。彼は、開戦直後から歌やカンタータを書いているものの、成功せず、初演後はレパートリーから外された。組曲「1941年」はあまりにも詩的だと批判され、カンタータ「名もない少年のバラード」は、プロコフィエフ自身にとっては大事な曲だったが注目されず、録音も演奏もされなかった。
だがその代わり、戦争は彼に、ソ連音楽を代表する名曲の一つをもたらした。レフ・トルストイの長編に基づくオペラ「戦争と平和」だ。これも戦時――1812年(祖国戦争)――を題材にしているが、イデオロギー的なアジテーション作品に堕すことはなく、複雑で多元的なドラマで、雄大かつ洗練された音楽となった。
プロコフィエフにあっては、エモーショナルかつ創造的な戦争との融合といったものは、ショスタコーヴィチの場合ほどは目立たないが、その一方で彼は、新古典主義的なオペラ「修道院での結婚」、バレエ音楽「シンデレラ」、交響曲第5番(いずれも1944年)などを完成している。
音楽的団結
全体として、独ソ戦の期間は音楽に豊かな実りをもたらした。ニコライ・ミャスコフスキーは、革命前の芸術の伝統を受け継いで交響曲を書き、人気を博した。また、ソ連音楽の若きヒーローたち、アラム・ハチャトゥリャン、ヴァノ・ムラデリ、ティホン・フレンニコフらの交響曲とオペラ、さらに、ユーリー・シャポーリンのオラトリオ「ロシアの大地を守る戦いの物語」も人気を得た。
「暗い夜」
戦後、ある者は迫害され、忘れ去られ、ある者は有名になったが、戦時中は、疎開先でも、ステージでも、ラジオ放送でも一緒だった。どう一緒だったかというと、同じコンサートの同じプログラムに、大衆歌謡曲と、風刺や悲哀を帯びたロマンスと、ヨーロッパのロマン派のクラシック音楽と、ソ連の最高水準を行く交響曲が共に含まれているくらいだったのだ。
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