トゥーラ・プリャーニクの歴史は17世紀に遡るが、それを作るための共通のレシピというものはなかった。トゥーラにはパン焼き職人がたくさんおり、各々が自分のやり方で焼き上げていた。レシピは厳密に保管され、男子が受け継いだ。職人は小麦粉や蜂蜜を量るのに分銅を使わず、むしろ小石や金属の塊を好んで用いた。これらは施錠された上で人目につかない場所に保管された。
プリャーニクは飢えを満たすためだけでなく、知識の源泉としても応用された。プリャーニクは文字や個々の音節、単語を象って焼かれたため、子供にとっては独特のいろは教本となった。プリャーニクを食べる前に子供は文字を覚えなければならなかった。覚えたら、ご褒美としてプリャーニクの一切れか、あるいは丸々一つをもらった。マーシャ、ヴァーニャ、サーシャなど、名前入りのプリャーニクもあった。
ルーシでは、結婚式に先立って求婚が行われた。もし青年が、好きな娘にプロポーズを受け入れてもらえるか自信がなければ、彼は彼女にプリャーニクを送った。もし娘が贈り物を受け取ったら、求婚のさいに肯定的な答えを期待できた。結婚式当日にも、新郎新婦はハート形のプリャーニクを贈られた。結婚式の翌日には新婚の夫婦はふつうプリャーニクを携えて花嫁の両親のもとを訪ねた。
1778年、サンクトペテルブルグの記念式典で女帝エカテリーナにトゥーラ・プリャーニクが贈られたが、それは重さにして30㌕以上、直径は3㍍以上もあった。表面には街のパノラマが描き出されていた。女帝は感銘を受けた。
現在、大きなプリャーニクは、トゥーラのプリャーニク博物館で目にすることができる。ここにはトゥーラのクレムリンが描かれた展示品があり、重さは50㌕に上る。
2014年にはトゥーラにプリャーニクの記念碑も建てられた。直径は2.5㍍。表には「トゥーラ・プリャーニクは1685年から知られている」という銘が刻まれている。まさにこの年がこの街のシンボルの誕生日と考えらえている。
トゥーラ・プリャーニクは“印刷”物だ。どういうことかと言うと、まず白樺やナシの木から板を切り出し、5~20年寝かせた。板の端は樹脂や蝋で塗られた。板が乾いたら、画家兼彫刻家が鏡写しに絵を描き込んだ。プリャーニク用の型は、70年は使い続けることができる。板から生地の欠片を取り除くため、型は油で煮沸する。
お馴染みのプリャーニクの他に、20世紀初めには遊び用の、中に具がないものも作られていた。定期市のさい、それは広場で遊びや娯楽のために使われた。例えば円盤のように投げた。誰よりも遠くへプリャーニクを飛ばせたら勝ち。このさい、プリャーニクが砕けてしまわないことが重要だった。
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