シベリアの富山企業 日本に製材

タス通信撮影

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バイカル湖の西側、イルクーツク州に、日本向けの板材・角材を生産する製材工場がある。田島木材(富山市)が三井物産と共同出資する製材業者「T.M.バイカル」(=TMB、本社スビルスク市)は、ソビエト連邦時代から続いている珍しい日系ロシア企業だ。

ルーブル安も追い風の老舗

 工場は、地元シベリア産のアカマツなどを原木で仕入れ、田島木材の技術管理の下で建築資材に加工する。できあがった資材を、三井物産が日本に輸入。輸入量の半分を田島が買い取り、あとの半分は物産が国内建設業界に販売する。ロシアはこのところ不景気下にあるが、ルーブル安がむしろ輸出に有利に働くなどビジネスは順調という。

 TMBは1991年春、田島、物産とソ連国営イルクーツクレスプロム社との3社合弁で誕生した。その後一貫して筆頭株主はソ連・ロシア側だったが、2014年春、国営企業を民営化する近年の政府方針に沿って、ロシア側が田島に株を売却。設立から23年を経て「ロシアの富山企業」となった。株主構成が変わっても、500人近い現地従業員はそのまま働いている。

 

現地加工の強み

 日本企業が外国に製材工場を持つメリットは何か。原木の丸太は、外側を切り落として製材加工すると体積が約半分に減り、多くの無駄が出てしまう。高い輸送費をかけて丸太を輸入して国内で加工するより、木の産地で製材してコンテナで持ち込む方が輸送効率が高いというわけだ。

 田島木材がロシア事業を検討し始めたのは1980年代後半のこと。シベリアの厳寒を耐えた樹木は丈夫で反りにくく、当時から「ソ連材」は評価が高かった。業界ではちょうど、先駆けとして大陸貿易が日ソ合弁製材工場を設立していた。この合弁企業関係者との知縁などから、創業家の田島洪重社長(当時)がロシア工場開設を決断。ただ資金・人材両面で負担が大きかっため、取引先の一つだった三井物産富山支店に話を持ち込んだ。物産の東京本社も将来性を認め、全面協力することになった。

 

幾多の“想定外”を乗り越え

 だが最初の10年は苦労の年月となった。合弁の契約先はソ連企業だったが、91年、法人登記を終えて資本金を振り込んだ直後にクーデターが起こる。数カ月後にソ連が消滅すると口座は凍結され、その後何年も使うことができなくなった。プロジェクトを引き継ぐロシア側組織も定まらず、交渉相手は短期間に4回変わった。新経営体制が固まったのは93年6月である。

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 ようやく生産が始まっても、日本への長期輸送の間に生じるカビや傷みなど、多くの問題が発生。なかなか軌道に乗らなかったが、関係者が一つ一つの課題に全力で対処し、克服していった。

 当時ロシア事業担当取締役だった黒田貢・現社長は、「想定外のことばかりで当初は資金が出ていく一方だったが、三井物産の粘り強い支えがあったため乗り越えられた。2000年代に状況が好転し、それまでの投資を回収できるようになった」と明かす。シベリアを舞台に、〝ビジネスの厳寒期〟を耐え抜いた末に得た成功がここにある。

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