ベアテ・シロタ・ゴードン

ロシア出身の著名なピアニストを父にもつ、22歳の女性が、わずか7日間で日本女性の運命を変えることになった。それは、日本国憲法の人権、平等に関する条項を起草したベアテ・シロタ・ゴードンだ。
ベアテ・シロタとルチアーノ・パヴァロッティ=Getty Images/Fotobank撮影
ベアテ・シロタとルチアーノ・パヴァロッティ=Getty Images/Fotobank撮影

 ベアテ・シロタは、1923年10月25日にウィーンで、ロシア出身の著名なピアニスト、レオ・シロタの娘として生まれた。6歳のときに両親とともに東京に移り住み、初めはドイツのナショナルスクールで、その後はアメリカンスクールで学ぶ。

 来日当初は見るもの聞くもの、何でもめずらしかった。「家族で日本に来たとき、私は日本人がみな、黒髪に黒い瞳なのを見て、ママに『ねえ、あの人たち、みんな兄弟姉妹なの?』と尋ねたものだった」

 1939年、アメリカ留学に旅立つが、当地にあるときに太平洋戦争が勃発した。ミルズ・カレッジを卒業すると、「戦争情報局」に勤務し、日本人向けのプロパガンダの文章を書く。

 戦争が終わると直ちに、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の通訳として、再び東京の土を踏む。ベアテは、ロシア語、英語、日本語、ドイツ語、フランス語を自由に操った。

 

アメリカ憲法を超える 

 1946年に、GHQで憲法草案作成の作業が始めると、ベアテは、その第14条、第24条など、平等に関する既定(男女間のそれを含む)を担当するよう命じられた。これらの条項は、日本という国にとって大きな分水嶺であり、日本国憲法が1947年に施行されたのち、この国はそれを乗り越えていくことになった。

ベアテ・シロタ

 ベアテは当時22歳の若さで、法律家でもなく、憲法草案作成について何の知識もなかったが、日本の女性たちが男性と真に平等の権利を獲得できるよう、助けたいと心から望んでいた。

 彼女は、草案作成に与えられた1週間の間というもの、この仕事に熱中し、10ヶ国の憲法を参照し、日本女性に対し、米国女性よりも広範な権利を付与したうえ、米国は日本国憲法に見習うべきだと言った。

 後にベアテが述懐したところによると、この憲法規定は、何世紀にもわたる日本の伝統習慣を打破したがゆえに日本女性にとって極めて重要なものとなった。日本国憲法施行以前には、「日本女性は、歴史的に“動産”とみなされ、両親や夫の気まぐれ次第で売り買いされ得る存在だった。仮に、日本国憲法で最重要な既定を第9条の『平和条項』だとすると、平等に関する規定はそれに次いで重大だ」

 ひと月後、この草案が、日本政府の代表者ともに討議されたとき、多くの男性は、こんなに多くの権利を女性に与えるのには反対だ、日本の文化と伝統に反する、と断言したが、ベアテの驚いたことに、ケーディス大佐(GHQ草案作成を実質的に指揮した人物)はこう言った。「皆さん、ミス・シロタにとって女性の権利は本当に大切なものなのですから、あれこれ言うのはやめようじゃありませんか」。こうして草案は承認された。

 

戦後、米国に日本文化を紹介 

 1947年、シロタ家は米国にもどり、ベアテは軍諜報部の将校、ジョゼフ・ゴードンと結婚した。彼女は芸術活動に携わるようになり、ジャーナリスト、演劇批評家として活躍する傍ら、日本からの留学生を援助した。そのうちの一人で、後に長く親交を結ぶことになったのが、ロシアのヴァイオリニスト、アンナ・ブブノワの姪、小野洋子。後年ジョン・レノンの妻となる芸術家、オノ・ヨーコだ。

 1958年、ベアテは、「演奏芸術センター」の館長に就任した。彼女の考えでは、そこでの最も重要な活動の一つは、アメリカに日本文化とその関係者を紹介することだった。彼女の力添えもあって米国で有名になった文化人のなかには、画家の棟方志功、作曲家の一柳慧、箏曲家の衛藤公雄、その他がいる。江戸囃子も、彼女のおかげで知られるようになった。

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 ベアテは、米国に日本文化を宣伝するために尽力、テレビでも一連の文化プログラムを企画・運営し、海外における日本の紹介者として最大の存在の一人となった。

 やがてベアテは、「アジア・ソサエティ」のプロデューサー・ディレクターとして、アジアのほぼ全域の、数十人に及ぶ演奏家、画家、アーティスト、劇団を米国に紹介した。

 

最高の贈り物 

 退職後、1991年に瑞宝章を授与され、記録映画『ベアテの贈りもの The Gift from Beate』(2002年)も製作された。

 しかし本人によると、何よりの贈り物は、何万人という女性から直接感謝されたり、お礼の手紙をもらったりしたことだという。彼女らは、弱冠22歳の女性のエネルギーと勇気のおかげで、人生を変えることができた。

 「ベアテ・シロタ・ゴードンは、3つの大陸で長い十分幸福な人生を送ったが、しかしその絶頂は、憲法草案作成に際しての人権小委員会での7日間だ。彼女が起草した、平等に関する条項は、音感抜群で語学の達人だったロシア人女性についての、最高の記念碑として永遠に残るだろう」

 歴史家でロシア人亡命者に詳しい青山学院大学・国際政治経済学部ピョートル・ポダルコ教授はこう言う。これに付け加えるべきことはない。

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