伝説の地シャンバラをめざした画家

ニコライ・リョーリフ肖像=画像提供:roerich-museum.org

ニコライ・リョーリフ肖像=画像提供:roerich-museum.org

ニコライ・リョーリフ(1874~1947)は画家、詩人、旅人、そしてもっとも謎に満ちた20世紀の人物の一人である。新興カルトの預言者、ソ連のスパイ、世界のフリーメーソンの代表、また彼の中に仏の魂が宿っているなどと言われていた。これらすべてが一人の人間の中に存在していたのである。

 スウェーデン系ロシア人であり、リョーリフ(レーリヒ)という姓は「名声に富んだ人」、「高名な人」を意味する。

 若いころにすでに名声を手に入れていた。絵を描き、短編小説を執筆し、考古学にも熱中。ギムナジウムを卒業後、サンクトペテルブルク美術アカデミーに入 学し、画家のアルヒープ・クインジの工房にも通う。リョーリフはクインジを尊敬し、「グル」や「師匠」と呼んでいた。30歳でサンクトペテルブルク美術ア カデミーの会員になり、喜んで「アカデミー会員リョーリフ」と書いていた。

オカルト好きの妻 

 リョーリフが結婚した女性は、秘教、超自然的なもの、超現実的なものすべてに夢中で、予知夢を見ていた。リョーリフが求婚する前には亡き父が夢に出てきてこう言った。「リョーリフに嫁げ」。そして2人は結婚した。

 エレーナ夫人の影響を受けて、リョーリフ自身もオカルトにのめりこみ、家では交霊会も催していた。当時は世紀の変わり目で、皇族にいたるまでのさまざまな人々が魔術や東洋に関心を持っていた。

 エレーナ夫人はある日、顔が輝いている人物を夢で見たことから、これを東洋の師との不思議な出会いだったと考えた。リョーリフも東洋に興味を持ち、自分 の前世はレオナルド・ダ・ヴィンチとダライ・ラマだと信じていた。2人はインド哲学の本を読みあさり、アジアに行くことを夢見ていた。内界と外界がつながるシャンバラのある山々、マハトマ、偉大な師、秘密を知る人物がいるヒマラヤ山脈へと。

ボリシェヴィキが探検を支援 

 1917年のロシア革命は衝撃的だった。リョーリフはこれを「知識に対する暴挙、貧困の普及」と書き、なぜ「賢い者が愚か者のようにふるまえる」のだろ うかと驚いた。混乱から逃れるためにヒマラヤに旅立ち、山の中腹の小さな寺院で師、マハトマたちを探した。これは人生でもっとも重大なできごとだった。

 マハトマたちは、 ロシア革命は災難であり、必然でもあるとリョーリフに説明し、書簡を預けてモスクワに送った。リョーリフはモスクワでゲオルギー・チチェーリン外務人民委 員を探し、書簡と聖なる仏教の土を渡した。手紙にはこう記されていた。「我が兄弟マハトマ・レーニンの墓に土を送る」。マハトマは追悼の念を述べ、レーニ ンをマハトマと認めたのだ。

 マハトマはチチェーリン外務人民委員に、共産主義が仏教に近いことを記した。これはより高尚な意識への前進、進化の高いレベルである。さらにイギリス政 府の影響下にあったインドとチベットについて、ソ連と交渉する用意があるとも伝えた。ボリシェヴィキはこれをたいそう気に入り、リョーリフを支援することを約束。チチェーリン外務人民委員はリョーリフを「半仏教徒・半共産主義者」と呼んだ。チェーカーがリョーリフを採用したという説もある。だがなぜまった く異なる世界の人物がチェーカーに必要だったのだろうか。このような人々はスパイにはなり得ない。

イギリスにソ連のスパイとみなされ探検を断念 

 リョーリフ一家はモスクワからチベット探検に出発したが、これは困難な道のりだった。男たちは馬に乗り、エレーナ夫人を荷台に乗せて運んだ。湿地の平野 や風がうなる高い渓谷…。標高4500メートルまでのぼると息が苦しくなり、息子のユーリは真っ青な顔をして馬から落ち、心拍数が低下した。何とか助けることができたが、薬を買うお金はつきてしまい、探検参加者の何人かは命を落とした。それでもリョーリフはあきらめなかった。シャンバラに行かねばならな かった。

 シャンバラとはハスの花をほうふつとさせる、雪山に囲まれた世界の象徴的な中心地だという。伝説では、そこに行けた人に「英知の中心」がひらけるとい う。ラマはシャンバラが心の中に存在する場所であることをほのめかしたが、リョーリフは信じなかった。シャンバラは存在し、すぐそこにあると信じていた。 だが、到達はできなかった。イギリス人がリョーリフをソ連のスパイと見なし、探検を禁じたため、戻らなければならなくなったのだ。

晩年をイギリスで過ごす 

 シャンバラを目指した人は他にもいたが、リョーリフは、イギリスの国王、ローマ法王、ルーズベルト米大統領から支持を得て、探検の資金も 用意したのに、探検はできなかった。晩年をイギリスで過ごしたリョーリフは、剃髪し、白ひげをたくわえ、「心の鏡だ!」と言われるほど深く賢い目をしてい て、その風貌はマハトマそのものになっていた。リョーリフが視線を向けると白髪になるといった、さまざまな伝説が語られていた。

 ある時突然ロシアに帰国することを決断し、絵画をまとめ、手紙を書いて、インドに別れを告げた。だが別れが心の負担となって、リョーリフは出発前に寝込んでしまい、そのまま起き上がることはなかった。インドの伝統に従って、家の前の積みまきで火葬され、「マハリシ・ニコライ・リョーリフ、偉大なるインド の友人の遺体が、ここで火葬に付された」と記された石が設置された。

 リョーリフは正教会の礼拝堂を建設し、ローマ法王から恩寵(おんちょう)を受け、仏教絵画を描くなど、さまざまな世界に属していた。そして平和的な新興宗教「光と知識」を創設するという考えも持っていた。偉大なる構想だ。いつか実現するのかもしれない。

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