プルシェンコのストーリーは、成功ばかりの完全制覇ではなく、ジェットコースターである。=
AFLO/Global Look Pressプルシェンコは永遠に選手であるかのような気がした。氷上であろうが、ケガの治療中であろうが、プルシェンコの影はほぼ20年、フィギュアスケート界を覆っている。
若きプルシェンコは世紀の変わり目に、当時の王者アレクセイ・ヤグディンに迫りながら、フィギュアスケートのエリートの仲間入りをする。2000~2001年シーズン、すべての大会で優勝。ファンには伝説のエキシビションのナンバー「セックスボム」をプレゼントする。プルシェンコは数百万人のアイドルになり、匹敵する選手などいないように感じられる。「テレビで初めて見たフィギュアスケートの選手はエフゲニー・プルシェンコ。オリンピックで、初めてフィギュアスケートを見た」と、世界選手権の2度の金メダリスト、エフゲニア・メドベージェワは話している。
とはいえ、プルシェンコのストーリーは、成功ばかりの完全制覇ではなく、ジェットコースターである。2006年トリノ冬季五輪での圧勝は、2010年バンクーバー冬季五輪での屈辱的な銀メダルに代わる。勝利は一瞬、休止期間は数ヶ月続く。別れ、そしてセンセーショナルな復帰。プルシェンコのファンはもう慣れっこだ。トリノ五輪で金メダルを手にした後、3年以上競技に参加しなかった。2013年春、新たな休止期間が発生する。今度は腰の不調。2014年ソチ冬季五輪で復帰し、団体戦で金メダルを獲得する。だが腰の痛みにより、個人戦を棄権しなければならなくなる。
エフゲニー・プルシェンコ、2006年トリノ五輪の「金」のフリー・プログラム(ゴッドファーザー、音楽ニーノ・ロータ、カーマイン・コッポラ、演奏エドウィン・マートン)
ソチ五輪はプルシェンコの最後の大規模な競技会となった。ここ3年は、椎間板ヘルニアに勇敢に立ち向かいながら、復帰への希望をファンに与えてきた。2015年4月には、復帰を公式に発表。だが奇跡にはいたらなかった。プルシェンコを氷上で見れるのは、広く宣伝の行われているアイスショー「雪の王」と「くるみ割り人形」のみとなっている。
「プルシェンコの天使」学校=ヴャチェスラーヴ・プロコフィエフ/タス通信
競技への参加を休止したことにより、プルシェンコは他の活動を積極的に行えるようになった。アイスショー以外にも、ボリショイ劇場の振り付け師セルゲイ・フィーリン、ユーリ・ポソホフらと新たなプログラムをつくったり、2016~2017年シーズンにアイスホッケーのスキルを磨いたりした。アイスホッケーの愛好家チーム「氷のオオカミ」で1シーズン、プレーを続け、モスクワではフィギュアスケートの才能ある児童を育てる学校「プルシェンコの天使」を開校した。
プルシェンコは競技生活を正式に終え、指導への野望を表明した。すでに最初の弟子がいる。それはソチ五輪の金メダリスト、アデリナ・ソトニコワ。これほどの師匠がいれば、ソトニコワにキャリアを再構築できる可能性はあると、メドベージェワの振付師イリヤ・アヴェルブフは考える。「ソトニコワとプルシェンコが一緒に闘いに挑む可能性は十分ある。これは素晴らしいこと」と、「Rスポルト」紙がアヴェルブフの言葉を伝えている。
AFLO/Global Look Press
プルシェンコと同様、浅田はここ10年の最も重要なフィギュアスケーターである。キャリア開始時には、驚きの技術を持った神童に見えた。シニア最初のシーズン、15歳の浅田はグランプリ(GP)ファイナルで優勝。フリー・スケーティングで2つのトリプルアクセルを成功させた史上初の女子選手となった。キャリア初期にオリンピックの金メダリストになれる可能性は十分あったが、トリノ五輪には年齢が到達していなかったため、出場できなかった。オリンピックで金メダルを取ることはなかった。4年後のバンクーバーでは、大好きなトリプルアクセルを3つ成功させ、ギネスブックにも載ったが、金メダルを獲得したのは韓国の金妍兒(キム・ヨナ)であった。
浅田真央、「仮面舞踏会」のワルツ(2008~2009年フリー・プログラム、音楽アラム・ハチャトゥリアン、振り付けタチアナ・タラソワ)
浅田の選手生活では、ロシアの指導者も大きな役割を果たした。ラファエル・アルトゥニアン・コーチ(現在はアメリカのアシュリー・ワグナーを指導)、次にタチアナ・タラソワ・コーチが指導した。浅田の母、匡子さんは2009年、「ソビエツキー・スポルト」紙のインタビューでこう話していた。「うちの娘たちにロシアのコーチがついたらと夢見ていた。ロシアのフィギュアスケートというと、スポーツとバレエの伝統をイメージするから。タラソワ・コーチは女神、神様みたいな人。届かない、ほぼありえない人。夢がかなったとは、いまだに信じられないことがある」
アルトゥニアン・コーチからはアメリカ・カリフォルニアで指導を受けていたが、タラソワ・コーチから指導を受けるために、2008年夏にモスクワに来た。タラソワ・コーチは浅田についてこう話していた。「いつも長時間準備運動している。すべての動きが自動的に出るように、ジャンプに力が必要なため、ステップのつなぎに力を消耗しすぎないように、ひとつひとつのステップを最大限に合理的にするように、努めてる。フリー・スケーティングに2つのトリプルアクセルを残すよう懇願された。アクセルは特殊なジャンプ。ジャンプに入るまで長く、時間を要する。すべてを間に合わせなければいけない」
浅田はソチ五輪でショート・プログラムでミスが続き、思うような結果を出せなかったが、さいたまで開催された世界選手権では見事に優勝した。=AFLO/Global Look Press
浅田も2013~2014年シーズンを最後に、競技生活からしばらく離れた。ソチ五輪ではショート・プログラムでミスが続き、思うような結果を出せなかったが、さいたまで開催された世界選手権では見事に優勝した。シーズンの終わりに、競技生活の中断を発表し、1年後に復帰した。プルシェンコとエリザヴェータ・トゥクタムィシェワの師、アレクセイ・ミシン・コーチは、復帰を偉業と呼んでいた。「今朝の練習で、リザ(トゥクタムィシェワ)に真央の復帰を伝えた。リザは、こちらのトリプルアクセルと勝負ね、と言った」
残念ながら、トゥクタムィシェワも、浅田も、トップの戦いのレベルにはそれ以上近づかなかった。浅田のここ2年の結果は平均的で、キャリアの終了を決めた。タラソワ元コーチは、引退についてこう話す。「真央にとって今、自分を高めることは難しいため、正しい決断をしたと思う。真央は優れた、偉大なアスリート。何事にも定まった時期があるということ。真央の盛運を祈っている。人生は始まったばかり」
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