エレーナ・ラジオノワ(左側)、エリザヴェータ・トゥクタムィシェワ(中央)、アンナ・ポゴリラヤ(右側)=ウラジーミル・ペスニャ撮影/ロシア通信
ソトニコワも、リプニツカヤも、現在は“主役の座”から退いている。ロシア選手権では他の若き選手が代わりに表彰台にあがり、スウェーデンで行われたヨーロッパ選手権では若きロシア勢が表彰台を独占した。銀メダルのエレーナ・ラジオノワと銅メダルのアンナ・ポゴリラヤは、16歳でこの快挙をなしとげた。金メダルのエリザヴェータ・トゥクタムィシェワは少し年上の18歳。だがシニアのロシア選手権で初めてメダルを手にした時はまだ12歳だった。
成熟した選手との違いとして、若い選手はより柔軟で、恐怖心が少なく、過去の勝利が重く肩にのしかかっておらず、無我夢中になれるところが記録更新に寄与すると、コーチは考える。しかしながら、他の強豪国アメリカや日本では、女子フィギュアスケートの「若返り」がロシアほど顕著ではない。ロシアの大きな特徴は親の情熱である。
1994年リレハンメル五輪の金メダリストで、現在コーチを務めるアレクセイ・ウルマノフ氏はこう話す。「ロシアの親は、多くの場合、メダルを獲得させるために自分の子どもをフィギュアスケートに入れる。もちろん、アメリカでもヨーロッパでも、子どものスポーツ選抜はある。しかしながら、ロシアのような雰囲気は欧米にはない。ロシアでは子どものレベルですでに、競争が世界の他の国とは比にならないぐらい激しい」
ソトニコワがモスクワのスケート場「ユジュヌイ」に母親に連れてこられたのは、わずか4歳の時。その3年後には、「CSKA」の有名なスタニスラフ・ジュク・コーチのシステムに入っていた。ソチで金メダルを獲得した後、ソトニコワは引退して、演劇大学に入学しようとも考えた。しかしながら、ソトニコワには病気の妹がおり、引き続き高額な治療費を稼がねばならなかった。
トゥクタムィシェワは、5歳でウドムルト共和国グラゾフ市のスケート場に通い始めた。5年間にわたり、1600キロメートル離れたサンクトペテルブルクの、アレクセイ・ミシン・コーチのもとに連れてこられた。ミシン・コーチは五輪金メダリストのエフゲニー・プルシェンコのコーチでもある。これを受けて、トゥクタムィシェワの親は自分たちの生活を変え、サンクトペテルブルクに引っ越すことを決意した。
ロシアでスポーツの成功を考えるのであれば、遅くとも4~5歳でフィギュアスケートを始めさせなければならない。=タス通信撮影
フィギュアスケート・ロシア代表のメンバーを見る限り、選手を国際レベルに育成するのは、主にモスクワのCSKAと「サンボ70」、サンクトペテルブルクの高等運動技巧学校「ディナモ」の3校である。
この2都市にすべてが集中している。フィギュアスケート専門のスケート場、一流トレーナー、選抜システム、競争構造、国内指折りの才能豊かな子どもたち、自分の子どもをフィギュアスケーターに育て上げるというアイデアの熱狂的支持者である親たち。
これらの条件の組み合わせによって、高い技術を持つ若手女子スケーターを国内で事実上”量産”できるようになる。女子フィギュアはもしかしたら、新体操がたどった道を進むかもしれない。新体操では、20歳でベテランとされる。
若いスケーターへの高い関心
ウルマノフ氏によると、若い女子スケーターの見ごたえのある戦いに、テレビは関心を持つという。
エレーナ・ブヤノワ(当時の姓はヴォドレゾワ)は、1976年インスブルック五輪にわずか12歳で出場した。ソトニコワはブヤノワ氏の教え子だ。「それぞれの年齢に独自の魅力がある。ソトニコワとトゥクタムィシェワは、この世界に入ってすぐに、フィギュアスケートを盛り上げた。複雑なエレメントをこなせることを示したため、ジュニアなのにロシアのコーチはそれらを取り入れるようになった」
トゥクタムィシェワのヨーロッパ選手権での成功は、13歳にして難しいジャンプを飛んでいたからでもある。他のヨーロッパ選手権のメダリストも同じ道を進んでいる。「子供時代にマスターした基本が難しいほど、その選手は大きく成長できる余地を持つ。ただ、シニアになって高いレベルに居続ける選手は少ない」とブヤノワ・コーチ。
練習と学校の勉強
ソトニコワとトゥクタムィシェワの例を参考にする限り、ロシアでスポーツの成功を考えるのであれば、遅くとも4~5歳でフィギュアスケートを始めさせなければならない。
7~10歳で才能のある少女は、先にあげた学校のコーチの目に留まる可能性がある。全国大会のレベルに進むと、若い女子選手は1日6~8時間ないしはそれ以上の時間をスポーツに費やす。
2度のジュニア世界チャンピオンで、今年のシニアのヨーロッパ選手権で銀メダルを獲得したエレーナ・ラジオノワは、マスコミの取材に対し、学校に定期的に通ったのは低学年のみで、その後は校外生制度を利用しながら、練習のために基本的な教科のみを学んだと話した。
リプニツカヤは9年生の時点で国家卒業試験の準備を行いながら、それぞれの教科の特別プログラムに沿った準備を1週間ごとに割り当て、多くを家庭教師から学んだ。
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