ロシアのベテラン・スポーツ記者、ニコライ・ドルゴポロフ氏 =ロシースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)/ヴィクトル・ワセニン撮影
「ロシア新聞」の副編集長である同氏は、ロシアのスポーツ記者の中でも、もっとも長い経験を持つ。最初に取材した五輪は1976年モントリオール夏季五輪。選手とともに世界中を渡り歩いたドルゴポロフ氏は、来年ソチで開催される五輪に特別な思いを抱いている。
-どのような思いでソチ五輪をお待ちですか。
ワクワクしています。2004年にソチ五輪開催の可能性を確信した者のグループができましたが、グループを鼓舞していたのが、今の2014年ソチ五輪組織委員会会長のドミトリー・チェルヌィシェンコ氏です。私が99%確信していたとしたら、チェルヌィシェンコ氏は120%。
2007年のことでした。はるか遠いグアテマラで、開催地を決定する国際オリンピック委員会(IOC)総会が行われ、会場は緊張に包まれていました。私 が着ていたスーツがたまたまロシア代表団のスーツとそっくりだったので、どこにでも通してもらえました。するとIOCの幹部の一人である、古き知人に会い ました。「なぜそんな悲しそうな顔をしているんだい?」と聞かれたので、「最終的にロシアが勝ったのか韓国が勝ったのかわからないからだ」と答えると、そ の知人は「ロシアは2~3票多く獲得して勝ったよ。だけどまだ誰にも言わないで」とこっそり教えてくれました。興奮や緊張があるなかで、私だけが落ち着い ていました。
-”五輪キャリア”はどのようにして始まったのでしょうか。最初の五輪でお仕事をされた時は、青年でしたよね。
確かにあの時はまだ若かったですね。モントリオール五輪で仕事をできたのは奇跡でした。学生時代からソ連スポーツ委員会で通訳をしていて、外国の選手団 と仕事をしたり、ソ連の選手団に同行して海外に行ったりしていました。ある時水泳競技の通訳として、カナダに行かないかとの提案を受けました。記者とし て、水泳競技に関してすでにたくさん書いていましたし。
ソ連代表団の一員として、五輪認証書だけで、ビザのついていないパスポートで出国できました。ただ記者認証書は私にはなかったので、カナダの組織委員会 に行って認証書を頼むと、委員はみんな「ここで何してるんだ、どうやって認証書なしで来れたんだ」と驚いていました。何とか説得して、結局本物の記者認証 書をもらえました。どうやらフランス語の知識が役に立ったようです。モントリオールでは英語が嫌われていましたから。ハンドボールや陸上では記者認証書を 提示し、水泳競技では通訳としてプール際に座っていました。この五輪を内側から見たのです。初めて五輪に参加して、すぐに特別待遇を受けたわけですから、 幸運以外の何物でもありません。現在はこのようなことは不可能です。
-以降11回五輪に行っておられますね。一番印象に残ったのはどの大会ですか。
なぜか一番悔しかった2002年ソルトレイクシティ冬季五輪を思いだします。女子のクロスカントリースキーのリレー競争については、事前にロシアの勝利 記事を一部書いていたぐらい、自信がありました。ソルジャーホローで選手を待っていると、ドイツ人の友人が双眼鏡を私に手渡して、「ニコライ、ロシアの選 手はいないよ」と言うんです。ドーピングの疑いで資格がはく奪されるなんて思ってもみませんでした。
良い思い出なら、私の場合はちょっと変わっています。1998年長野冬季五輪で、フィギュアスケートのペアのタマーラ・モスクヴィナ・コーチに「あなた の教え子のどのペアが勝ちそうかな」と聞くと、今大会ではカザコワ・ドミトリエフ組、次の五輪ではベレズナヤ・シハルリドゼ組というニュアンスの答えをし たのです。ロシア人の選手が勝つかではなくて、誰がいつという具体的な答えをできるとは、どれだけ選手の力を理解しているのだろうと感心しました。我が フィギュアスケートの選手を誇りに思っています。私の一番のお気に入りであるエフゲニー・プルシェンコ選手の健康が回復すれば、4回目の五輪でさらなる実 力を示すでしょう。
-お気に入りの五輪というのはありますか。
それはもちろんモスクワ五輪です。私が当時、そして今でも住んでいる家の向かい側に、モスクワ五輪組織委員会の事務所が開設されたのです。新聞はすぐに 私をこの担当にしました。その時はまだかけ出しの記者でした。6年間追い続けましたが、あえて謙虚な言い方をやめるとすれば、私はモスクワ五輪のすべてを 知っていました。ですから記者として、またガイドとして仕事をすることができました。地元開催の五輪とは、世界の主になること、そして言葉では伝えられな い感動です。
-もっとも高額な五輪のひとつだったのは北京五輪かと思いますが、この時は聖火リレーの走者をつとめられましたね。
それ以前にも声がかかったことはありましたが、実現しませんでした。中国ではこれがスムーズに進みましたが、リレーの場所がラオスやベトナムとの国境近 くだったので、北京から飛行機を2回乗り継いで行くというなかなかの冒険をしました。リレー走者の滞在場所はとても標高の高いところでした。ロシア人は私 一人で、あとはアメリカの学者、テコンドー連盟の会長、韓国の大手企業の社長、そしてなぜか一般のフィリピン人女性と、とてもおもしろいグループができま した。異なる環境の人間が集まったにもかかわらず、すぐに打ちとけ、友人になりました。聖火トーチの持ち方については現場で説明を受けましたが、腕を少し 曲げ、トーチを少し体から離して持ち、エンブレムを前面に出さなければなりません。聖火をつなぐ時は相手のトーチに近づけて五つ数えると、聖火がともりま す。
-聖火トーチを持って走っている時は、何をお考えでしたか。
私の区間は玉龍雪山でしたが、走ったという実感がありません。沿道から人々が声援を送ってくれて、「プロフェッサー、プロフェッサー」と言われたことを覚えているだけです。これは喜びなんてものではなく、強い高揚感です。
-まだまだ聖火リレーには参加されますか。
ソチ五輪では、クラスノヤルスク周辺で、聖火リレーの走者になれそうです。
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