20世紀の60年代から70年代にかけて、ゴロトキ競技はソ連で非常に人気を呼ぶようになった。=タス通信撮影
プレーヤーが投擲の準備をしている。手には木製のバット(投げ棒)。前方に陣地があり、そこには5本の円筒木が奇妙な「型」に組み立てられている。
この競技では、バット(投げ棒)を投げて「ゴロド(都市)」と呼ばれる正方形の陣地から5本の円筒木(ゴロトキ。ボーリングで言う「ピン」)を叩き出す、そしてできるだけ少ない回数の投擲で叩き出すのを競うのだ。このゴロトキ(ピン)のサイズは、長さ20センチ、直径4.5~5センチ。プレーヤーは「ゴロド」から13メートル離れた位置に立ち(その位置を「コーン」と呼ぶ)、バットを投げる。バットを投げて1本以上のゴロトキを叩き出したら、その後の投擲は距離が半分になり、「ゴロド」の手前6.5メートルの距離(ポルコーン)から行う。さまざまな「型」に組み立てられたゴロトキ(ピン)がすべて正方形の陣地の外に出たら、「型」の打ち落としに成功したことになる。
都市空爆ゲーム?
陣地に組み立てられた「型」には、「大砲」、「フォーク」、「星」、「エビ」、「飛行機」などの名前がつけられている。陣地に組み立てられた15の「型」を3ラウンドの間に一番少ない回数の投擲で叩き出したプレーヤーが優勝だ。競技は、個人戦でも団体戦でも行われる。
ゴロトキ競技の陣地は2メートル四方の正方形で、それが投擲のため一定のゾーンに区切られている。プレーヤーがゴロトキ(ピン)めがけて投げるバットの長さは1メートルを越えてはならない。バットの材質は、普通、樫かサンザシかハナミズキ。
投擲が得点にならず、ゴロトキ(ピン)がまた元の場所に組み立てられ、再度投げる権利を失うのは、
1.バットがペナルティー・ラインまたはラインより手前の地面に触れたとき。
2.制限ラインを踏むか、制限ラインを踏み越えたとき。
3.30秒以内に投擲を行わなかったとき。
国民的スポーツの復活なるか
ゴロトキ競技を最初に始めたのは農民たちだ。地面にフィールドを描き、バットを投げて木の棒を叩き出した。コンクリートやアスファルト上のフィールドが現れたのはずっと後で、20世紀になってからのこと。そのときはもうバットに金属が張られていた。1928年にゴロトキ競技は、第1回全ソ・オリンピック大会の種目に加えられた。現在も使用されている競技規則は1933年に最終的に確定した。「型」の数は固定され、15に制限された。
20世紀の60年代から70年代にかけて、ゴロトキ競技はソ連で非常に人気を呼ぶようになった。スタジアム、保養所、サナトリウム、住宅の中庭、キャンプ場、工場の構内など、どこを覗いてもゴロトキ競技のフィールドが見られた。このブームは次第に引いていったが、1990年代初めに、ゴロトキ競技に対する関心が高まり始めた。国際ゴロトキ・スポーツ連盟(IFGS)も結成された。
レーニン、スターリン、トルストイ、シャリアピン・・・そしてプーチンも
ゴロトキ競技経験者の中には、作家のトルストイやチェーホフ、ソ連の指導者だったレーニンやスターリン、条件反射の実験で有名な生理学者イワン・パブロフ、歌手のフョードル・シャリャーピンもいた。
ロシアのプーチン大統領、モスクワ市長セルゲイ・ソビャーニン氏、ロシア・スポーツ観光青年相ビタリー・ムトコ氏も、幾度となくゴロトキをプレーしている姿が見られた。
残念ながら、ロシアのすべての都市にゴロトキ競技のフィールドがあり、ゴロトキのコーチがいるわけではない。ニジニ・ノブゴロド女子選抜チームの若いコーチであるアンナ・トマシェビッチさんは、今なおロシアでゴロトキ競技の人気が低いことを嘆く。「このスポーツを普及して、『ゴロトキ競技は健在だ』という考えを国民大衆に浸透させる手段が足りません」。
今夏モスクワ市内に専用フィールドを設置
現在のほとんどのゴロトキ・プレーヤーがこの道に入ったきっかけは、友人や親族の影響によるもの。プリオジョルスク市チームの一員、ダニール・マエロフスキー氏が最初にバットを投げてみたのは、友人の練習の時だった。ゴロトキ部を訪ねる回数がだんだんと増えて、ついに仲間入りした。「ゴロトキ競技はすぐに好きになりました。ここでたくさんの友達ができたし、このスポーツは健康を高め、私たちをより強くしてくれます」。
もちろん、ゴロトキ競技は、人気の面では、国際的なサッカーやテニスとは比較にならないだろうが、この昔ながらの競技は、確実にゴロトキ・ファンの裾野を広げている。
今年の夏にはゴロトキ競技のフィールドが、モスクワ市内の多くの公園に開設される。最初の開設は5月18日、場所はバウマン記念公園だ。
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