事件前に訪問した長崎でのニコライ皇太子(上野彦馬撮影)
ニコライ2世は、シベリア鉄道の極東での起工式に出席するために、ロシア海軍の艦隊とともに、ウラジオストクへ向う途上で日本に立ち寄った。
まだ小国であった日本は、国を挙げてさまざまな歓迎行事を行ったが、シベリア鉄道の極東への延長、およびロシアの極東進出に関しては、脅威を感じる者も少なくなかった。
犯人の津田三蔵(1855~1891)は、津藩士の子で、西南戦争に従軍し、勲章を授与されている。犯行後、津田は「一本(一太刀)献上したまで」と言い、殺意を否定しているが、供述は曖昧で、支離滅裂な点もあり、はっきりした動機の裏づけはとれていない。精神病歴があった。
厳重な警備に盲点
事件は琵琶湖見物の帰途に起きた。警備は厳重ではあったが、警官は、貴賓に背を向けるのは不敬とされ、背後の群集の状態を把握できなかった。また、二階から賓客を「見下ろす」ことも厳禁であるなど、盲点があった。
津田がいきなりサーベルで斬りつけると、皇太子ニコライは乗っていた人力車から飛び降り、路地に逃げ込んだ。津田はニコライを追いかけようとしたが、同行していたギリシャ王国の王子ゲオルギオスが杖で津田を打った後、人力車夫が津田を取り押さえた。ニコライは、右側頭部に約9センチの切り傷を負ったが、生命の危険はなかった。
ニコライはわれに返ると、「大したことではない。ただ、この事件で私の日本人への感情と、彼らの親切への感謝の念が変わるなどと、日本人が思わなければいいが」と述べ、気丈なところを見せた。
明治天皇が直ちに見舞い、謝罪
接待役であった有栖川宮 威仁親王が直ちに明治天皇に打電すると、天皇は翌12日早朝に東京を立ち、13日にニコライを宿泊先の京都・常盤ホテルに見舞い、謝罪した。
日本は、「ロシアが仕返しに攻めてくる!」と上から下まで恐怖に駆られ、寺院では快癒を祈って祈祷が行われ、学校は休校して謹慎の意を表し、なかには、咽喉と胸を突いて自殺し、「死をもって詫びた」女性まで現れた。
大逆罪適用で死刑か、一般人への殺人未遂罪か
津田の処分に関しては、①皇室への大逆罪を適用するか、②現行法にしたがって、一般人への殺人未遂罪で裁くか――で国論は揺れ動いたが、なかには逓信大臣の後藤象二郎のように、津田を射殺すべきだといった極論を吐く者もあった。
結局、大審院院長(現・最高裁長官)の児島惟謙は、政府に優勢な①の意見を抑えて、担当裁判官を説得し、現行法に従って裁くことになった。
その結果、津田は無期徒刑を言い渡されたが、同1891年9月に急性肺炎で獄死している。
児島は、政府の圧力に屈せず、法治国家としての筋を通したが、その一方で、自分の担当でない裁判に介入したという問題点は残ったといえる。
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