リドリー・スコット監督の映画『ナポレオン』:ロシアとロシア人の描写の真偽を検証してみた

Ridley Scott, 2023/Scott Free Productions
 伝説の軍司令官ナポレオンの興亡を描いた歴史ドラマが、全世界で公開された。主演はホアキン・フェニックス。当然ながら、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、そのストーリーで重要な役割を演じている。

 ロシアはナポレオン戦争に――フランスとの同盟においても、フランスに対抗する同盟においても――積極的に参加している。そして、ナポレオンのユニークな政治的キャリアの「終わりの始まり」となったのは、1812 年の悲惨なロシア遠征だった。

 歴史家らはすでに、リドリー・スコット監督が史実を少なからず恣意的に歪めていると非難している。しかし、以前から歯に衣着せない、この生ける古典的名匠は、批評家たちに向かってこう言い放った。「下らないことを言ってないで、自分の仕事をちゃんとやったほうがいいよ」。もちろん、どんな映画にもフィクションの権利はあり、スコットの映画も例外ではない。しかし興味深いのは、ロシアに関係する筋が、この映画の製作者たちの空想にさほど影響されていないことだ。

ロシア皇帝はナポレオンに心酔していたか――「必ずしもそうではない」

 映画では、アレクサンドル1世は、金髪の熱狂的な青年として登場する(24歳のフランス人、エドゥアール・フィリポナが演じる)。アレクサンドルは、ナポレオンの天才に心酔し、指揮官として彼の戦術を模倣しようとする。やがてツァーリは、より成熟し経験を積んだオーストリア皇帝フランツ2世に影響されて、第三次対仏大同盟に加わる。しかし、この若き君主は明らかに、政治的考慮に加えて、無敵のフランス人を戦場で倒したいという願望にめまいを感じている。 結果は周知の通り。1805年のアウステルリッツ郊外での戦い、いわゆる「三帝会戦」で、ナポレオンは大勝し、凱歌を揚げた――。ちなみに、この戦いは、レフ・トルストイの長編小説『戦争と平和』で見事に描かれている。

 さて、実際のアレクサンドル1世はどうだったか?実は、ナポレオンとの年齢差はそれほど大きくなかった。彼は確かにナポレオンより若かったが、8歳しか違わない。アウステルリッツの時点で彼は27歳だ。要するに、若くはあったが、うら若い少年と言うには程遠く、しかも、彼の巻き毛はすでにかなり薄くなっていた(少なくとも、1807年の「ティルジットの講和会議」を描いた、ニコラ・ゴスの絵画では、禿げがもう見えている)。

ニコラ・ゴス作「ティルジットの講和会議のプロイセン王妃とナポレオン」(アレクサンドル1世はナポレオンの右)

 また、アレクサンドルは、ナポレオンの軍事的栄光をひどく羨んではいたが、概して、その点で彼が例外だったわけではない。なるほど、このロシア君主は、アウステルリッツで負ける前はかなり自信過剰だったが、当時でさえ彼が単純なお人好しだったとは言い難い。 

ナポレオンはアウステルリッツで敵を罠に誘い込んで勝利したのか――「その通り」

 この映画の最大の見どころの1つは、有名な「アウステルリッツの戦い」の再現だ。これはナポレオンの最も印象的な勝利の1つだろう。巧妙さと決断力、そして十分な練度の「軍事機械」のおかげで、彼は数で勝る敵を倒すことができた。ナポレオン軍の兵数は7万3500人だったが、ロシア・オーストリア連合軍は8万5千だった。

 ナポレオンの戦術は映画でもよく再現されている。彼は、軍を2つのグループに分け、そのうちの1つを敵の視界に残し、ロシア・オーストリア軍が楽勝を当てにして、自ら攻撃をしかけるように誘導した。「餌」が効いてくると、罠はパタリと閉じ、フランス軍のもう1つのグループが突如現れ、敵に後退を強いた――薄く凍結した池の上に。

 なるほど、歴史家たちが書いているように、ナポレオンはロシア・オーストリア軍に与えた損害をかなり誇張していたと思われる。池の氷の下で溺れて死んだのは、彼が主張したように2万人ではなく、おそらく1千人以下だろう。

ロシア人はフランス軍を退却させるために自らモスクワに放火したのか――「おそらく、そうだった」

 アウステルリッツの会戦の後、ロシアとフランスは一時的に同盟関係を結んだが、後にアレクサンドル1世はナポレオンの宿敵、イギリスに与することを選択した。そして1812年、ナポレオンはロシアに侵攻する。彼は、首都サンクトペテルブルクに次ぐ第二の都市、モスクワにも到達している。とはいえ、モスクワは征服されたのではなく、単に放棄されただけだった。ナポレオン役のホアキン・フェニックスは、無人の「赤の広場」を馬で疾走し、周囲に荒廃の跡を目にする。彼は怒りをあらわにした。「ロシア人は尊厳を持して負けることもできない」。しかも、間もなく恐ろしい大火災が発生した。ナポレオンは戦慄する――ロシア人自身が、侵略者を退去させるために、モスクワに放火したことが判明した。

 事実は実際そうだったようだ。今日の歴史家は、これにほとんど疑問を抱いていない。放火は、モスクワ総督フョードル・ロストプチンの直接の命令で行われたもので、彼は、モスクワからの給水ポンプの撤去も命じている。フランス軍にとって、食料の備蓄と宿舎が灰燼に帰したことに加えて、モスクワ大火は、別の影響も及ぼした。強烈な愛国心を呼び起こしたことだ。こうして、この戦争は結局「祖国戦争」となった(ロシアの歴史学では今でも伝統的にそう呼ばれている)。言い換えれば、ロシアの正規軍だけがナポレオンと戦ったのではなく、義勇兵やパルチザン、つまり国民全体も戦った。

映画でモスクワは正確に描かれているか――「いいえ!」

 ちなみに、映画ではモスクワ自体は登場しない。それは、コンピューターグラフィックスで描かれており、明らかに信憑性は追求していない。イワン大帝の鐘楼ウスペンスキー大聖堂のドームなど、一見してそれと分かる建築上のランドマークが背景に時々現れるだけだ。当初、リドリー・スコット監督は、ロンドンのウェストミンスター大聖堂(19世紀末~20世紀初めにネオビザンチン様式で建てられた)を使ってクレムリンを再現することも考えたが、許可は得られなかった。

ナポレオンがロシアを征服できなかったのは厳寒とコサックの攻撃のためか――「もちろん、それもあるが、それだけではない」 

 リドリー・スコット監督は、映画の公開終了後に、4時間半にわたる、拡張されたディレクターズ・カット版を「Apple TV+」で公開すると約束している。今のところ、ナポレオンの伝記の多くのエピソードは、「点描」されているだけだ。彼にとって不名誉なロシア遠征にも、これは完全に当てはまる。遠征後、ナポレオンの運命は最終的に傾いたのだが、劇場版では、この戦役はわずか10分に収められている。

 こんな短い時間枠では、映画製作者たちは、なぜ天才的な軍司令官が負けたのかを納得のいくように説明することはできない。我々鑑賞者は、こう説明されるだけだ。戦役は長引き、寒波が到来し、飢えと病気で兵士が減り、脱走者が増えた。ロシア軍は、直接戦闘はしかけずに、コサックによる攻撃でフランス軍を苦しめた、と。

 もちろん、これは、勝因のごく一部にすぎない。まず第一に、ナポレオンは、アウステルリッツの前にアレクサンドルが犯した間違いを繰り返した――つまり、敵を過小評価していた。とくに、この戦争が国民的性格を帯び、ロシア軍総司令官ミハイル・クトゥーゾフが才能をこれほど発揮しようとは思いもよらなかった(1810年にミハイル・バルクライ・ド・トーリが作成し、祖国戦争の当初から展開していた焦土作戦を、クトゥーゾフが受け継ぐことも含めて)。ちなみに、クトゥーゾフは、映画には登場せず、有名なボロジノの会戦は、わずか3分しか時間が割かれていない。

アレクサンドル1世はナポレオンの元妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネを本当に口説いたのか――「その証拠はない」

 ナポレオンとジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー演じる)のラブストーリーは、この映画の主な筋の一つであり、ナポレオンの政治的決断の多くは、彼の私生活での出来事によって直接説明されている。

 たとえば、映画によると、ナポレオンが最初の流刑先であるエルバ島から脱出して再び帝位に就こうとしたのは、アレクサンドル1世がジョゼフィーヌの宮殿を訪れたニュースに、新聞で接したためだった。ナポレオンは当然激怒する。この「青二才」は、自分から権力を奪っただけでなく(彼が退位を余儀なくされたのはロシアでの敗北の後だった)、今や自分の女をわがものにしようとしている。ナポレオンは、権力とジョゼフィーヌの両方を取り戻すことを決意する――。

 なるほど実際に、ナポレオン政権の崩壊後に、ジョゼフィーヌとアレクサンドルは定期的に会っていた。エクトール・ヴィジェの絵画もある。題して、「皇后ジョゼフィーヌは、マルメゾン城で皇帝アレクサンドルを迎え、子供たちを皇帝に引き合わせる」。しかも彼女は、度重なる会見を自分の命で贖うことになる。ジョゼフィーヌは肺炎で亡くなったが、その5日前、彼女は舞踏会の後、涼しい夜にロシア皇帝と屋外で散策していた。

エクトール・ヴィジェ作「皇后ジョゼフィーヌは、マルメゾン城で皇帝アレクサンドルを迎え、子供たちを皇帝に引き合わせる」

 実際、二人が不倫関係にあったと考える向きもあった。たとえば、歴史家マイケル・ブロアーズは、ナポレオンに関する数冊の本の著者であり、この映画のコンサルタントでもあるが、彼の考えでは、誘惑したのはアレクサンドルではなくジョゼフィーヌのほうで、彼女は、それによって自分の立場をよくしようとしたのだという。しかし、ジョセフィーヌとアレクサンドル1世の散歩と、ナポレオンのエルバ島脱出との間に直接の関連性がないのと同様、これについても証拠はない。

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