日本人初のイコン画家 山下りん:ニコライ2世にも奉呈

露日コーナー
デニス・モイセエンコ
 山下りん(1857~1939)は、茨城県の貧しい武家の出身で、さまざまな点でパイオニアとなることを恐れなかった。明治時代に女性として初めて、「工部美術学校」に入学し、ロシアに留学する。後年、日本初のイコン画家として活躍した。彼女の筆になるイコンは現在、美術の殿堂「エルミタージュ美術館」の所蔵品にもなっている。

絵画への興味

 山下りんは、1857年6月16日に、常陸国笠間藩(現在の茨城県笠間市)の武家に生まれた。一家は貧しく、りんがわずか7歳のときに、父親が亡くなっている。少女は子供の頃から、絵画への興味を示し、紙を手にすると、家族の肖像を描いたりした。

 15歳の時、少女は、絵画の師を求めて、徒歩で東京へ向かった。家出は失敗したが、これで若き画家は諦めることなく、翌年、彼女は年長者の同意を得て上京する。

 しかし、待望の上京は、間もなく失望に変わった。当時は、浮世絵にとって危機の時代であり、画家たちは貧困生活を強いられていた。当時の名高い絵師、豊原国周の工房で、りんは、期待に反して、もっぱら皿洗いを任された。 

 希望が甦ったのは、1876年に、ヨーロッパの美術アカデミーに倣って東京初の高等美術学校が開校し、女性の入学が認められたときだ。当時すでに中丸精十郎の指導を受けつつ学校に勤めていたりんが直ちにこの工部美術学校に入ったのは不思議ではない。

 アントニオ・フォンタネージ(1818~1882)を含む3人のイタリア人画家がこの学校に招かれ、日本における洋画の普及に多大な影響を与えた。フォンタネージは生徒たちに、実物を直に写生するように教えた。裸体画の授業もあった。

 しかし、りんは、このイタリア人画家のもとで肖像画家としての技を磨く時間はあまりなかった。彼は2年後に離日したし、りん自身もサンクトペテルブルクに出発したからだ。 

正教との出会い

 1861 年の夏、25 歳のロシア人宣教師ニコライ・カサートキン (1836~1912)、後のニコライ大主教が、日本の函館に到着した。1868 年、彼は自宅で密かに、 3 人の日本人に洗礼を施した。すなわち、土佐郷士の沢辺琢磨(洗礼名パーヴェル)とその仲間二人だ。こうして日本正教会の基は築かれた。そして1873年、日本はついにキリスト教禁止令を廃止する。

 りんは、学校の同窓で正教徒の山室政子を通じて、ニコライに会った。つまり、山室に勧められてりんは、東京の正教会(神田駿河台)を訪れ、運命的な出会いをしたわけだ。

 りんは洗礼を受けてイリナを名乗り、間もなく、宗教的な題材による最初の絵を、雑誌『正教新報』の表紙に描く。

 ニコライ・カサートキンの布教活動は、キリスト教の教えの「日本化」を目的としており、彼は、イコン画家も日本で育成しようとした。そのため、山室政子はロシアに留学することになったが、彼女は結婚したので、りんが代わりに1880年にサンクトペテルブルクに赴いた。日本を発ったりんは、ロシアはヨーロッパの一部であり、そこでヨーロッパの芸術についてより多く学べると想像していた。

サンクトペテルブルクで待っていた凄惨な事件 

 ロシアへの旅は、りんの想像ほど快適ではなかった。彼女の道連れ――そのなかには大修道院長と、その弟と妻もいた――は、りんに個別の船室を与えず、使用人のように扱った。それでも、嬉しい発見もあった。りんは、コンスタンティノープルのソフィア大聖堂を訪れ、アレクサンドリアでは、生まれて初めて洋服に着替えた。

 サンクトペテルブルクでの最初の数日間、りんは、文字通り歴史的大事件の震源地にいた。

 「一行が泊まっているホテルに帰るとすぐに、近くで大きな爆音が聞こえ、まさに皇帝が暗殺されたところだと伝えられている。もう少し遅くホテルに戻っていたら、巻き込まれて怪我をしたかもしれない。りんは、日本への手紙でこの日の様子をそう伝えている。まさに波乱に満ちた留学生活の幕開けだった」。こう大下智一は書いている(『山下りん――明治を生きたイコン画家』)。

 これは、皇帝アレクサンドル2世に対する7回目の、そして致命的となった暗殺の試みのことだ。1881 年 3 月 13 日、皇帝はエカテリーナ運河の河岸通りで、革命的なテロ組織「人民の意志」のメンバーが投げつけた爆弾で致命傷を負った。

 ツァーリ暗殺の数日後、りんはノヴォデヴィチ復活修道院に居を定めた。これは、当時サンクトペテルブルク唯一の女子修道院だった。その絵画工房では、有名な画家たちが教えており、そのなかには、ロシア帝国美術アカデミー院長だったフョードル・ヨルダン(1800~1883)もいた。

 しかし、ここでもすべてが順調なわけではなかった。若き画家には、修道院の古いイコンを描き直す作業は、創造的な要素を欠いていると思われ、日記でこの仕事を「あさましい」と嘆いている。

 幸か不幸か、りんは間もなくエルミタージュへの「道」を見出した。エルミタージュは、フォンタネージ教授から教わった美術の殿堂だ。りんは、イタリアの巨匠たちの絵画をコピーすることにすべての自由時間を費やし始めた。

 エルミタージュの幹部も、美術館に画架を持った少女が来ることに異を唱えなかった。ある人物から予期せぬ肖像画の注文が舞い込んだことで、お金の問題も解決した。そこで、りんは、修道院からエルミタージュを頻繁に訪れる余裕ができるようになった。りんの日記から、エルミタージュの絵画から3枚の複製画が制作されたことが分かっている。

 ところが、この牧歌的な絵は、女子修道院の院長らには不満だった。彼女らはりんに、留学の主たる目標はイコンの習得であることを思い起こさせる。その後間もなく、エルミタージュ訪問を禁じるとともに、イコンを描く仕事を与えた。修道院長の名でもある聖ニコライのイコンだ。 

 「絵画技術の成熟前に生み出されたイコンですから、彼女が学びたいものじゃない。しかも生来の才能に恵まれて本当に巧(うま)い人ですから、下手な絵が嫌いなんです(笑)。ロシア語もままならないのに指導の修道女に逆らい、堂々と抗議もします。明治の女性は本当に強いですよ」。りんの伝記を書いた朝井まかては、こう言っている。

 落胆したりん自身は日記にこう記している。「何ノ心モキエウセ今ハタダ命終ル事を望ムノミ」

 りんは、言葉の壁のために自分のことをうまく説明できず、しかも、修道院内での絶え間ない葛藤が彼女のインスピレーションを奪う。そして、サンクトペテルブルクの天候不順のせいもあって、彼女は病気になる。医師は病気の原因を見つけられなかった。

 「心ハ大ニ悪ルシ悪ルシ悪ルシ 実ニ死ヌ程ナリ 此日夕方イシヤ来リチンサツ(診察)ナス 大ニ困苦ナリ…イシヤ云病気ニ不非ハ誠ニシカリ 我ハ病無シ」。りんはこう書いている。

 ロシア留学は5年間の予定だったが、彼女は2年で切り上げて帰国した。

ニコライ2世への贈り物

 帰国するとりんは、つい先ごろ日本のニコライ主教に、修道女になりたいと手紙を書き送っていたというのに、真逆の道を選ぶ。すなわち、正教と決別して、版画に専念する。

 彼女がイコンに戻ったのは1889年のことだ。このとき、ロシアのイコン画家ワシリー・ペシェホノフが招かれて、駿河台の新しい正教会大聖堂(通称はニコライ堂)で、5層のイコノスタシス(聖障)を制作することになった。 ペシェホノフの写実的で半ば世俗的な作風は、りんにとって審美的に身近であり、彼女はペシェホノフの助手となる。

 その後間もなく、彼らはロシア帝国皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチの訪日に向けて準備を始める。ニコライ・カサートキンはりんに、皇太子のためにキリストの復活のイコンを描くように指示した。この小さなイコンは、油絵の技法を用いて木板に描かれている。

 木の枠は、かつて東京の増上寺の塔を建てるために使われた木材が用いられ、蒔絵の技法で金漆が塗られていた。イコンの前景には墓から甦ったキリストが描かれ、背景には 2 人の天使が描かれている。イコンの背面には、2か国語で次のように記されていた。

 「ロシア帝国皇太子、ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公殿下へ。日本正教会は、殿下のご健勝と安寧を熱烈に祈願しつつ、そのしるしとして謹んで奉呈いたします。1891 年 5 月 6 日、東京」

 しかし、「大津事件」(ニコライ皇太子暗殺未遂事件)のため、東京の復活大聖堂への皇太子の訪問は行われなかった。イコンは、5月19日、皇太子がロシアへ帰国するその日に、巡洋艦「アゾフの記憶」(パーミャチ・アゾーヴァ)艦上で奉呈された。

 こうして、山下りんの作品はサンクトペテルブルクに着き、ロシア革命の時期に失われるまで、冬宮に保管されていた。しかし、第二次世界大戦後に、エルミタージュ美術館の収蔵庫で見つかり、1990年に長崎で開催された「旅の博覧会」展で、日本とソ連の友好関係の証として披露された。今日、イコンはエルミタージュのロシア文化史部門に保管されている。

「毎日何をするということもなく、全く自然を相手の生活を楽しんでいた」

 りんはしばらくの間、神田の教会の女子神学校の 2 階にあるアトリエで指導していたが、1912 年にニコライ・カサートキンが亡くなって間もなく、彼女は、画家には致命的な白内障を発症し、さらに1917 年にはロシア革命が起きて、日本正教会全体が困難にさらされることになる。教会へのロシアからの物質的支援は停止した。アトリエは閉鎖を余儀なくされ、当時61歳になっていたりんは、故郷の笠間に戻り、そこでトマトの栽培を始めた。

 りんを身近に知っていた小田秀夫によると(『山下りん――明治を生きたイコン画家』、大下智一)、彼女は、「毎日何をするということもなく、全く自然を相手の生活を楽しんでいた」。 

 彼女は、酒を1日2本ずつ空け、友人たちとはもっと飲み、「二合三合のはした酒はいやだね」などと言っていたという。1939年に亡くなるまで、彼女はもはや絵筆を手にとることはなかった。

 りんが描いた 3 つのイコンが掲げられていた東京の復活大聖堂は、1923 年の関東大震災で破壊された。大聖堂そのものは 1929 年に復元されたが、イコンは永久に失われた。イコンには作者の署名はなされない慣わしだが、現在、確実にりんの手になるイコンが約300点知られており、日本各地の正教会に保管されている。

 保守的なイコン制作の伝統のなかにあってさえ、山下りんは、自分のアイデアをとり入れて、自身の画の様式を見出すことができた。りんのイコンは技術的に優れているだけではない。彼女は、テンペラではなく油彩で、また時には木の板ではなくキャンバスに描いた。そして、聖者たちの顔に独特の感情と温もりが感じられる点でも際立っている。

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