アスターポヴォ:文豪トルストイの最後の旅をたどる

カルチャー
ウィリアム・ブルムフィールド
 歴史家で建築の専門家でもあるウィリアム・ブルムフィールドは、20世紀初頭にはあまり知られていなかった、地方の小さな鉄道駅を探索した。1910年のある日、ここの駅舎で、偉大な作家が息を引き取っている。

 1908年5月、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、その最も有名な写真の一つを撮影した。ヤースナヤ・ポリャーナの邸宅における作家レフ・トルストイ(1828~1910年)のカラー写真だ。これは、プロクディン=ゴルスキーがこの文豪の80歳の誕生日を機に撮ったいくつかの写真の一つだ。

 ちなみに、ヤースナヤ・ポリャーナにおける私(ウィリアム・ブルムフィールド)の一連の写真は、1970年7月に撮影が始まり、その後数十年にわたって続いた。私がそこで撮った最初の写真は、ロシアにおける私の最初期の仕事の一つだ。

 プロクディン=ゴルスキーにとっては、他の多くのロシア人と同じく、トルストイはロシア帝国の試練の時における正義の「発信源」だった。トゥーラ市の南西(モスクワから180 キロメートル)に位置するヤースナヤ・ポリャーナは、当時、すべての階層のロシア人と外国人観光客にとって「巡礼地」となっていた。

 トルストイの創作と多岐にわたる活動は、世界中の数千万の読者、信奉者にさまざまな喜びと気づきを与えたが、彼の晩年は、その献身的な妻ソフィア(ソーニャ)アンドレーエヴナとの葛藤と対立の時期でもあった。

 1910年の秋、トルストイは、耐え難くなっていた家庭を後にして、自邸ではなく、遠く離れた小駅「アスターポヴォ」(現レフ・トルストイ駅)の駅舎で亡くなった。これは、現在のリペツク州にあり、モスクワの南東約400キロメートルに位置する。

 作家の生涯最後の日々については、多くのことが語られているが、この重大な出来事が起きた物理的な環境、つまり鉄道駅「アスターポヴォ」には、ほとんど注意が払われていない。私は幸いにして2013年8月に、国立博物館となっていたこの駅の写真を撮ることができた。

モデル駅

 駅名は、17世紀半ばから存在が知られる、近隣の村「アスターポヴォ」に由来する。この地名は「オスターポヴォ(Ostapovo)湖」に基づき、これは男性の名前「オスタプ(Ostap)」に由る。これは、標準的なロシア語では「アスタープ」と発音される。

 アスターポヴォ村は、ロシア中南部の、他の何百もの村と、とくに違った点はなかった。しかし、この僻村の沈滞は、1889~90年に、新たなリャザン・コゼリスク鉄道の一部としてアスターポヴォ駅が建てられたことで変わる。

 この鉄道は、1890年代後半には、リャザン・ウラル鉄道に組み込まれ、その開発にともなって、アスターポヴォ駅の交通量は大いに増えた。駅舎とその施設は、1898年に建設が始まり、その後の10年間に著しく拡張された。

   1910年には実は、アスターポヴォ駅は、トルストイの各種伝記、評伝で述べられているような小駅ではなかった。むしろ、ロシアの急速に成長していた鉄道システムにおける地方駅のモデルとみなされた。

 アスターポヴォ駅の施設は、いくつかの建物で構成されていた。そのなかには、1903年に建設された実質2階建てのレンガ造りの駅舎があり、その隣には、1890年建設の、オリジナルの木造駅舎がある。

 これらの駅舎の裏手のやや右側には、2棟の平屋建て木造建築がある。駅長の官舎と、今は薬局として使われている元診療所だ。近くには電信施設の入った低いレンガ造りの建物もある。

 これらの建物の右側には、三位一体教会と、それに隣接する鉄道技術学校があって、いずれも1905~1909年にレンガで造られた。教会は、ソ連時代に倉庫として使用されたが、今は浄められている。

 駅の背後の左側には、レンガ造りの給水塔が2つあり、その大きさは、アスターポヴォ駅の急速な拡張とそこを通過していた汽車の本数を反映している。駅施設の、小さな広場を挟んだ向こう側には、鉄道職員のための、一連の魅力的な建物がある。駅周辺には、門を備えた公園が設えられていた。

 1910年10月31日、トルストイが重い病を得て降り立ったアスターポヴォ駅はこのようだった(この日付は、1918年までロシアで用いられていたユリウス暦による。ヨーロッパの他の地域で使われていたグレゴリオ暦では11月13日に当たる)。    

人生最後の旅

 晩年、トルストイとソフィア夫人の葛藤はますます激しくなった。彼は、自分の社会的、道徳的見解に妻が無理解であると感じていたこともあり、亀裂はいよいよ深くなった。ソフィアは、彼を深く愛し、13人の子供(うち8人は成人した)を産み、自分の生涯を夫の仕事と幸福のために捧げてきたのだが…。

 このまさに悲劇的な愛憎は、トルストイの、幾人かの身近な同志のために、さらに深刻になった。彼らは、作家がヤースナヤ・ポリャーナを去り、無所有の主張を実践に移すべく公の行動に出るべきだと主張したりした。

 こうした同志の中で最も有名なのはウラジーミル・チェルトコフだ。彼は、トルストイの信頼を得て、その晩年の著作、見解、活動を広めるために、その組織・運営に関わる活動にたゆまず従事したが、一筋縄でいかぬ人物であり、ソフィア夫人との関係は険悪だった。

 こうした緊張状態に加えて、トルストイは、国家権力と正教会を公に激しく批判し、その特定の教義を否定した。それに対して正教会は、1901年に作家を「破門」した。彼が最晩年に教会との和解、復帰を望んでいたという意見もあるが、いずれにせよ彼は、正教会と和解せずに亡くなった。

   10月28日(ユリウス暦)未明、トルストイは、眠れぬ夜の後、娘アレクサンドラ(サーシャ)に家出の意志を告げ(彼女は後で父に合流した)、ホームドクターのドゥシャン・マコヴィツキーと二人で、ヤースナヤ・ポリャーナを後にした。見つかることを恐れて彼らは、最寄りの鉄道駅ではなく、小駅「シチョーキノ」へわざわざ遠回りし、途中乗り換えて、カルーガ県(現在は州)のコゼリスク駅に着いた。

 サーシャとチェルトコフに電報を送った後、二人は同日、コゼリスク駅から近いオープチナ原野修道院を訪れた。これは、もう一人の文豪フョードル・ドストエフスキーの人生においても重要な役割を果たした名高い聖地だ。 

 1877~1890年に、トルストイは、ここのアンヴローシー長老と3回会っている。アンヴローシーは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のモデルだと考えられている。

 10月28日(ユリウス暦)、トルストイは、オープチナ原野修道院内の巡礼者宿舎から、長老たちが住んでいた「洗礼者ヨハネ僧院」に2回近づいては、その都度、逡巡するかのように引き返している(何らかの内心の葛藤があったのかもしれない)。

 多くの人がこの意外な訪問の動機を推し量っているが、正教会と和解する意思があったのか否かについては、確たる証拠がない。

 トルストイとマコヴィツキーは、オープチナ原野修道院において、僧院の隣の巡礼者宿舎で一夜を過ごした後、10月29日(ユリウス暦)に、この修道院の北方10キロメートルにあるシャモルジノ女子修道院へと向かった。トルストイは、ここで修道女となっていた妹マリア(1830~1912年)を訪ねた。

 その翌日、娘サーシャが、ソフィア夫人がトルストイの居場所を知った、という知らせをもってやって来た。その夜、トルストイは妻に、自分の後を追わないでほしいという手紙を書いている。          

臨終

 10月31日(ユリウス暦)早朝、トルストイは、サーシャとマコヴィツキーとともにシャモルジノ女子修道院を去り、コゼリスク駅に戻った。そこで彼らは、南方のロストフ・ナ・ドヌ方面の汽車の三等車に乗り込んだ。 

 しかしトルストイは、すでに82歳の高齢で、健康状態はあまり良くなかった。しかも、絶え間ない移動で疲れ果て、混雑し煙草の煙が充満した粗末な車両で苦しみ、風邪から肺炎を発症した。

 夕方には、トルストイははっきり苦痛を現わし始め、体温が上がっていた。心配したマコヴィツキーとサーシャは、次のアスターポヴォ駅で下車することにした。親切で機転の利くイワン・オゾーリン駅長は、それがトルストイだと分かって、自分の官舎の大きな一部屋を提供するなど迅速に対応した(官舎にオゾーリンは、妻と3人の子供と住んでいた)。

 翌週、アスターポヴォでの事件は、国際的なセンセーションを巻き起こした。電報による速報が絶えず出され、記者が駅に群がった。トルストイの死去間近には、フランスのパテ(映画会社)の撮影クルーがやって来た。

 11月2日(ユリウス暦)、チェルトコフは、トルストイの求めに応じて来訪し、その夜、トルストイの長男セルゲイも到着した。ソフィア夫人は、他の子供たちと一緒に、その日の夜に、一等車でやって来た。この車両はそのまま駅に残り、彼らの臨時の宿舎となった。トルストイの同志、弟子たちは、彼女が駅長宅に入り夫と会うことを妨げた。

 医師団も到着したが、いかなる診断、治療ももはや無益だった。ソフィア夫人は、夫が昏睡状態に陥ったときに、やっと部屋に入ることを許された。11月7日(ユリウス暦)午前6時5分、トルストイは、正教の儀式(聖体拝領)を受けずに亡くなった。ラトビア出身のルター派だったオゾーリン駅長は、家の中にイコン(聖像)を置いていなかった。     

   オゾーリンは、偉大な作家が死去したままの形で寝室を残すことに決めた。横臥したトルストイの頭と体が、ベッド脇のランプに照らされて投げかけた影が、壁紙に描かれて保存されている。その日のうちに、記念プレートが部屋のドアの1つに付けられた。駅の時計は、6時5分で止められた。

 翌11月8日、棺がアスターポヴォからヤースナヤ・ポリャーナに送られ、翌9日、トルストイの遺体は、十字架のない簡素な墓に埋葬された。数千人が政府機関の監視下で葬儀に参列した。

変化の時代の文化的記念碑

 トルストイの生涯は、2つの非常に異なる時代にまたがっていた。すなわち、農奴制に基づく農業社会から、不均等な開発と工業化の激動の時代へ。これは、彼の名作『アンナ・カレニーナ』に明瞭に示されている。

 トルストイの最後の日々がまさに鉄道で過ごされたのは象徴的だ。鉄道こそは、社会の急激な変化の手段でありシンボルだったからだ。こうした変化をトルストイは、深く観察し、疑いをもっていた。

 1918年にアスターポヴォ駅と町は、「レフ・トルストイ」と改められた。しかし、アスターポヴォの名は、博物館の複合施設と近くの村に残っている。優れた駅長だったオゾーリンが残した遺産は、ロシア革命後も維持され、現在はモスクワのトルストイ博物館によって管理されており、国のランドマークの1つになっている。

 今の「レフ・トルストイ町」は、人口が8千人強で、豊かな農業地域の行政の中心地だ。2014年現在、駅には旅客サービスはない。しかし、貨物列車はまだ行き来し、あの大きな時計の前を通り過ぎている。その時計は、常に6時5分を指している。

*20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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