「パステルナークを読まずに非難した」:ソ連時代の奇妙なフレーズの背景は?

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ロシア・ビヨンド
 人々が読んでもいない小説を批判したのはなぜか。この現象は慣用句になり、広まった。これについて説明してみよう。フレーズは、ソ連時代以降もその意味を失っていない。

 人々が読んでもいない小説を批判したのはなぜか。この現象は慣用句になり、広まった。これについて説明してみよう。フレーズは、ソ連時代以降もその意味を失っていない。

 ボリス・パステルナークは、ロシア史上最も有名な詩人・作家の一人だ。彼は、国際的にも有名であり、現代ロシアでは崇拝されていると言ってもいい。こうした事実にもかかわらず、ソ連時代には、彼は「ペルソナ・ノン・グラータ」だった。

有名詩人がいかに「村八分」になったか

 ボリス・パステルナークは、『ドクトル・ジバゴ』という傑作小説も書いたが、主に詩人として知られており、彼の象徴、隠喩を駆使した詩は、ロシア文学の「銀の時代」の、不可分の一部をなすと考えられている。それは、ロシアで最も才能あふれる豊饒な詩人たちの時代だった。

 パステルナークは、多くの作家とその家族がそうしたように、1917年のボリシェヴィキ革命後に亡命することはなかった。彼は詩を書き続けた。そして、ソビエト当局も彼の存在を認めた。

 1920~30年代には、パステルナークは、最高のソビエト詩人の一人とみなされ、ソ連作家同盟の名誉ある会員だった。 独裁者ヨシフ・スターリンでさえ、彼とその才能を高く評価した。そして、おそらくスターリンへのパステルナーク個人の求めにより、何人かが刑務所や強制収容所から釈放されている。

 しかし、スターリンの強権支配のために、1930年代後半から、ソ連のプロパガンダは、パステルナークのように哲学的で「現実から遊離した」抒情詩ではなく、愛国心を高揚させる詩を必要とするようになる。その後、彼は、詩が出版されなくなったので、翻訳と散文に取り組み始めた。

名作『ドクトル・ジバゴ』をめぐる事件

 パステルナークは約10年間をかけて、1955年に、かつてロシア語で書かれた最高の小説の一つ、『ドクトル・ジバゴ』を完成させた。一見すると、ロシア革命後に起きた内戦を描いているようだが、深く読み込むと、人間、愛と死、人生の意味、そして宇宙そのものについての小説であることが分かる。

 この作品は、ソ連時代にはまったく不適切だった。それは、ボリシェヴィキを肯定的に描いておらず、むしろ、彼らがいかに残酷に行動し、いかに多くの生命を損なったかを示しているからだ。

 当然、『ドクトル・ジバゴ』は発禁となり、ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフを含む、メディアや当局から轟然たる非難を浴びた。そして次に起きたのは、パステルナークがソビエト作家として「殺された」ことだ。

  『ドクトル・ジバゴ』の原稿は西側に持ち出され、1957年にイタリアで出版された。後に、アメリカの中央情報局(CIA)は、この機関が『ドクトル・ジバゴ』を明るみに出すことに関わったという文書を公開している。それは、ソ連に対する彼らのもう一つの「武器」だった。

 1958年、パステルナークのノーベル文学賞授与が発表された。ソ連当局は、スウェーデン・アカデミーの決定に憤慨し、ソ連に対する政治的行為とみなした。

 パステルナークへの迫害がソ連で始まる。彼は、裏切り者であると宣告され、作家同盟から除名された。このことは当時、彼の作品がもはやまったく出版できないことを意味した。

 ソ連の公に認められた作家たちは、迫害キャンペーンを組織する。あらゆる公式メディアは、この小説が革命とソビエト権力への誹謗中傷だと書き立てた。メディアは、労働者たちから寄せられたという触れ込みの、小説を非難する数通の手紙を引用することまでした。

 しかし、問題は、実際に小説を読む機会があった人は皆無だったことだ。なにしろ、この作品はソ連で出版されなかったのだから。そこで、これらのメッセージの多くは、「パステルナークは読んでいないが、彼を非難する」、または「この小説は読んでいないが、悪い」などの言葉で始まっていたわけだ。

 ソ連共産党のいくつもの委員会、工場、研究所等は会合を開き、異口同音にパステルナークを非難した。一部の人々は、パステルナークのソ連国籍を剥奪することさえ提案した。結局、彼は、公式にノーベル賞を辞退せざるを得なかった。

 迫害キャンペーンでパステルナークの健康は損なわれ、彼は1960年に癌で亡くなった。この小説がソ連で初めて正式に出版されたのは1988年のことだ。

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