大ビジネスの継承者
パーヴェル・トレチャコフは古い商家の生まれだった。彼の曽祖父は18世紀後半にカルーガ州マロヤロスラヴェツ市からモスクワに移住した。後にモスクワを代表する美術館を開くことになるパーヴェルが生まれたのは1832年だった。彼の父ミハイル・ザハロヴィチは布製品の商いで成功しており、さらにはラードを英国に輸出する実業家の娘と結婚していた。
父は子供たちを家族の事業に関わらせており、パーヴェルは15歳ですでに父のもとで簿記係として働いていた。トレチャコフが18歳の時に父親が他界し、彼と弟のセルゲイは事業と資産を相続した。
兄弟は父の事業を発展させ、平凡な商人から企業家に成長、綿紡績工場を建設した。トレチャコフ兄弟はザモスクヴォレーチエ地区に家を買った。間もなくそこに最初の絵が現れた。パーヴェルが絵の収集に傾倒し始めたのだ。
芸術の愛好家
19世紀半ば、裕福で教養のある商人らは新しい価値観の持ち主だった。彼らは上流社会と活発に交流し、芸術のスポンサーとなり、慈善活動に資金を出した。
例えば、サヴァ・マモントフの屋敷には芸術家の住まいがあり、多くの偉大な画家らがそこで腕を磨いた。ちなみにパーヴェルはマモントフのいとこと結婚している。
トレチャコフ兄弟は鋭い感性を持ち、方々へ旅し、芸術を愛し、サロンに通い、音楽家や文筆家、画家とも交流していた。トレチャコフの娘たちは商人とではなく芸術家と(長女は音楽家と、もう一人は有名画家レフ・バクストと)結婚した。
当時は芸術作品の収集が流行っており、パーヴェルはオランダ人画家の絵を何枚か購入した。しかし、西欧の画家の圧力に対抗し、ロシア芸術に目を向けてロシアの画家たちを支援することを決めた。
他の商人は作品を個人コレクションとして集め、自分の屋敷の壁に傑作を飾っていたが、トレチャコフはコレクションを広く公開することを計画していた。
「私は国民の画廊、つまりロシア人画家の絵を集めた画廊を残したい」。
熱心な収集家
トレチャコフ家の屋敷に最初の絵画が現れ出したのは1856年のことだった。この年が美術館の創立日と見なされている。コレクションの最初の絵と考えられているのが、ニコライ・シーリデルの『誘惑』とワシリー・フジャコーフの『フィンランドの密輸人との衝突』だ。
トレチャコフは傑作『トロイカ』をはじめとするワシリー・ペローフの多くの作品やコンスタンチン・フラヴィツキーの『侯爵令嬢タラカーノワ』などの絵を買い占め始めた。ロシアを題材にした絵画や、イワン・シーシキン、ニコライ・ゲー、アルヒープ・クインジ、イリヤ・レーピンなど、移動派画家の絵画の多くも購入した。トレチャコフは個別に選んだ絵に部屋を丸々割くこともあった。レーピンの『クルスク県の復活大祭の十字行』がその一例だ。
トレチャコフは大金をはたいてワシリー・ヴェレシチャギンが中央アジア旅行の後に描いた「トルキスタン・シリーズ」の13枚の絵と多くの下絵を購入した。このシリーズは、価格が高過ぎるという理由で皇帝アレクサンドル3世が購入を諦めたものだった。
トレチャコフは絵画をめぐって皇帝と「競争」していたという噂もあった。例えば、アレクサンドル3世が展覧会にやって来てある絵画の購入を希望すると、すでにトレチャコフに買われているということもあった。当初は絵が売り出される前にそれを皇帝に見せる決まりになっていたが、トレチャコフは機先を制し、展覧会の前に絵を買い占めていたのだ。
画廊のオーナー
トレチャコフ邸に客を入れ始めたのは1867年だった。展示専用のいくつかの部屋に絵が掛かっていた。当時のコレクションはすでに数千枚を超えており、間もなく屋敷が手狭になった。パーヴェルは個別の画廊を建てることを決めた。以後20年で数階建ての建物が4棟増築された。
トレチャコフ邸は今なおトレチャコフ美術館の主要な建物となっている。収集家の死後、画家ヴィクトル・ヴァスネツォフが「ロシア様式」で統一したファサードの下絵を描き、おとぎ話の御殿のような佇まいにした。
1892年、パーヴェル・トレチャコフは信じられない寄付をした。彼は画廊と収蔵する絵画すべてをモスクワ市に寄贈したのだ。その代わり、彼は市の名誉市民の称号と画廊の監督者となる権利を得た。
慈善活動家
パーヴェルは自分をパトロンとは見なしておらず、ただいろいろな方法で社会の役に立とうとしていただけだった。芸術品の収集とロシア人画家に対する支援の他、彼は社会福祉活動も行っていた。
「私の考えは、若い頃から一貫して、社会から得た財産が社会(人々)に何らかの有益な仕組みで還元されるために、財産を蓄えるということだった」とトレチャコフは記している。彼は学者や教育機関を援助し、探検調査に資金を提供することもあった(例えば、ニコライ・ミクルーホ=マクライのニューギニア探検に巨額の資金援助をした)。
トレチャコフ家にとってつらかったのは病弱の息子が生まれたことで、パーヴェルは医療も支援するようになった。聾唖児童協会の保護者となり、精神病棟付きの重病患者病院を創設した。