トレチャコフ美術館=
Lori/Legion Mediaトレチャコフ美術館の歴史は、ロシアの商人の美術収集家パーヴェル・トレチャコフが、ワシーリー・フジャコフの絵『フィンランドの密輸業者たちとの交戦』を購入した日から始まる。その絵はペテルブルグにあったフジャコフのアトリエで、450ルーブル(現在の価格で約7700ドル)で購入した。のちにロシア美術の最大の収集に成長したコレクションは、まさしくこの『密輸業者』から始まった。現在この絵は第16室に展示されている。
トレチャコフ兄弟の弟セルゲイも最初、ロシア画家の絵を収集していた。彼のコレクションのうち最初のロシア画家作品となったのは、アレクセイ・ボゴリューボフの風景画『コストロマ近郊のイパチエフ修道院』。兄パーヴェル・ミハイロヴィチの勧めでこれを購入した。のちに兄が何かの理由で絵を入手できなかった場合は、弟セルゲイがその絵を購入した。
美術館設立について書かれた最初の遺言書をトレチャコフが作成したのは、28歳のときだった。のちにコレクションをモスクワ市に寄贈するとき、彼はいくつかの条件を提示した。美術館は「永久に」公開すること、入館料は無料にすること、復活祭、降誕日、新年をのぞいて週4日以上開館することなどの条件である。
トレチャコフのコレクションの最初の絵になったのは、ロシアの歴史上の人物を主題にした、コンスタンチン・フラヴィツキーの絵画『獄中の公女タラカノワ』だ。絵に描かれたタラカノワは、自分を女帝エリザヴェータ・ペトローヴナとアレクセイ・ラズモフスキー伯爵の娘だと偽称した。女帝エカテリーナ2世の命により、タラカノワはイタリアから連れ出してロシアへ運ばれ、サンクトベテルブルグのペトロパヴロフスク要塞に幽閉され、そこで死去した。皇帝アレクサンドル2世はこの絵が気に入らず、美術アカデミーの展覧会カタログに、絵の主題は現実と一致しないという説明を入れるように命じた。
1893年8月の開館日に、パーヴェル・セルゲイ・トレチャコフ記念モスクワ市立美術館には約700人の来館者があった。新聞各紙によれば、来館者はさまざまな年代の画家、学生、職人、小店主、領地管理人、農民だったという。来館者の中に女性は事実上いなかった。
壮大なコレクションのうち、いくつかの絵が展示を禁止された。最初に検閲にひっかかったのが、イリヤ・レーピンの有名な絵『1581年11月16日のイワン雷帝と息子イワン』(『息子を殺害するイワン雷帝』の名で有名な作品)だ。皇帝アレクサンドル3世はこの絵が全く気に入らず、1885年4月1日、絵は一般展示が禁止された。トレチャコフは、特別の招待客にこの絵を見せるため、別室を用意したほどだ。3か月後にようやく禁止は取り消された。
画家たちの間でトレチャコフの権威は非常に高く、トレチャコフには、公然の秘密として絵画購入の優先権が与えられていた。「その絵は私にと考えてください」という言葉は、絵の質を示す独特のサインと見なされた。傑作を見分けるトレチャコフの美的センスと能力は議論の余地がなかった。もしトレチャコフがある絵に興味を抱いたら、時には皇帝の家族でさえ、それを横から買い取ることはできないほどだった。
画家アレクサンドル・イワーノフの死後、文字どおり数時間後に、アレクサンドル2世は1万5千ルーブリ(現在の約245.50ドル)の代価で『民衆の前に現れたキリスト』を購入した。パーヴェル・トレチャコフが入手できたのは、その習作だけだった。ソ連時代の1925年に、この絵はトレチャコフ美術館への移譲が決定した。特別にこの絵のため美術館の建物に、絵を収容できる5.4m×7.5mの展示室が増築された。絵は1932年からそこに収蔵されている。
トレチャコフ美術館の建物の前には、1938年までレーニン像があった。1939年に同じ場所にスターリン像が現れた。そしてようやく1980年に美術館の創立者の像に替えられた。興味深いことにスターリン像は以前と同じく美術館の敷地内に残されている。スターリン像は内庭に移されたのだ。
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