なぜソビエト芸術は美しいか

カルチャー
イリーナ・オシポワ、ロシアNOWへの特別寄稿
 ソ連崩壊後の30年間、ソ連芸術の本流、社会主義リアリズムに対する芸術史研究者の態度は何度も変わって来た。だが、一般の鑑賞者の大半にとっては、これは今なお魅力的なものであり続けている。

 「芸術は人民のものだ」――ウラジーミル・レーニンが1920年のクララ・ツェトキンとの対話の中で発した言葉は、共産主義者のスローガンとなった。この言葉は盛んに広められ、あらゆる村の文化会館に掲げられた。本来この言葉には続きがあった。「それ[芸術]は幅広い労働者集団に深い根を張らなければならない。それはこの集団にとって分かりやすく、愛されるものでなければならない。(…)果たして我々は、労働者や農民の集団が黒パンを必要としている時に、ごく一部の人間に甘く洗練されたビスケットを提供せねばならないだろうか。もちろん私はこのことを、字義通りだけでなく、比喩的にも理解している。我々が常に考慮に入れるべきは労働者と農民だ」。

すべては人民のために

 かくして世界プロレタリアの指導者が方針を示し、ソビエト芸術は続く70年間これを遵守することになる。この芸術の主な特徴は、皆に分かりやすいことだった。つまり、教養のある貴族や洗練された芸術ボヘミアン、美術館の常連だけでなく、文字通り田舎からやって来て美術館に迷い込んだあらゆる農民にも分かる芸術だ。主要な芸術様式に定められたのがリアリズムだったのは驚くべきことではない。メタファーや意味的多層性はこのアプローチには余剰だった(こうした様式は粛清期には単純に危険だった)。 

 鑑賞者が自分を重ね合わせることのできる新たな英雄が絵画や彫刻に現れた。建築者や製鋼工、学生、スポーツ選手、兵士だ。当時最高の芸術家(例えばアレクサンドル・サモフヴァロフやアレクサンドル・デイネカ)の作品では、彼らの姿は鏡の役割を果たしただけでなく、普遍的な力を持っていた。

各家庭に絵画を

 「芸術は人民のものだ」というスローガンから、もう一つの結論が出た。芸術は所得水準にかかわらず、すべての人々の手に届かなければならないというものだ。絵画は広く頒布された。流れ作業で出版された画集、文学や歴史の教科書、はがき、日めくりカレンダー、有名雑誌の挿絵。広い国家のあらゆる所で人々が絵画を集め、切り抜きを壁に張り、自分たちの素朴なコレクションを作った。記憶に残るこれらの絵画は、現代人のノスタルジーを呼び起こす。ソビエトらしい絵画としてではなく、過ぎ去った子供時代としての記憶だ。

明るい未来へ前進

 レーニンによって定められた指針がもう一つある。芸術を共産主義イデオロギーのアジテーションとプロパガンダに利用することだ。共産主義の建設は長く複雑な事業で、個人の利益は常に全体の明るい未来のために犠牲になっていた。その中で、芸術はいかにして困難に対処するべきかの模範を示すものだった。

 ソビエト絵画はすべて極端なまでに楽観的で、描かれた人物は超人のようだった。疲労や抑圧、疑念といった要素が入り込む余地はなかった。ただ明るい太陽、労働とスポーツの喜び、得られた成果に対する誇りがあるばかりだった。画家タチアナ・ヤブロンスカヤの絵画では、体操をする幸せそうな娘(『朝』)、穀物を収穫する女性コルホーズ員(『穀物』)、建設現場のレンガを積んだ手押し車のそばで戯れる男女(『建設現場で』)が描かれている。

 アレクサンドル・デイネカの絵画『休憩中の班』では、筋骨隆々の青年らが作業着を脱ぎ、嬉しそうに水の中へと駆けている。背景のクレーンと作品名だけが、これらの超人が建設現場での厳しい勤務を終えたところだということを暗示している。

モダニズム画家の後継者

 ソビエト指導者らが全く新しい世界を建設しようとしていたにもかかわらず、芸術は伝統を断ち切ることができなかった。ソビエト画家の第一世代の大半は革命前の優れた教育機関に通っており、自分たちもその教えを伝授していた。その上、ソ連の主要な教育機関は古い機関を改組しただけのものだった。1918年に創建された有名なヴフテマス(国立高等美術工芸工房)は、モスクワ絵画彫刻建築学校の直接の後継であり、1930年に閉鎖された後は、これを土台としてモスクワ建築大学、スリコフ記念モスクワ国立美術大学、モスクワ印刷大学が設置された。これら3つの大学からは、ソビエト時代とポスト・ソビエト時代の芸術界のスターが数多く輩出した。

 モダニズムと印象派の特徴は、多くのソビエト芸術家の絵画に表れている。ソビエト政権から最も気に入られていた画家の一人で、悪名高い『クレムリンのI・V・スターリンとK・E・ヴォロシロフ』(市民はこの絵を『雨後の二人の指導者』と呼んだ)を手掛けたアレクサンドル・ゲラシモフは、革命前はコンスタンチン・コローヴィンとヴァレンチン・セローフに師事していた。絵から主人公らを取り除くと、濡れた道路に映る像、軽い雲、背景のモスクワの街並みのピンクがかった色調に、師の影響を見ることができる。

 最も有名なソビエトの記念碑『労働者とコルホーズの女性』を制作したヴェーラ・ムーヒナは、革命までパリのアントワーヌ・ブールデルの下で学び、イタリアを旅してルネサンス期の作品を研究しており、古典主義的な均整と彫刻術を用いた。

 先鋭的で革命的なアバンギャルドの手法は1930年代にはソビエト芸術から消えたが、ロシアやヨーロッパのモダニズムが発見したより広範な手法、その自由な構成技法、色彩の実験は、最も才能豊かなソビエト芸術家らによって1970年代まで活用され続けた。その代表例がアレクサンドル・デイネカとアレクサンドル・サモフヴァロフ、そしてゲオルギー・ニスキーだ。

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