「いりえのほとり」に入ってもっとも驚かされるのは、狭い店内にコンパクトに並べられた商品の多彩さとその量だ。ここにはすべて、いやそれ以上のものが集められている。グジェリやホフロマの食器、マトリョーシカ、クレイドール、パヴロポサードのプラトーク(ロシアのショール)、ベレスタと呼ばれる白樺で作られた小箱やアクセサリー、エナメル細工フィニフチ、ファベルジェのインペリアルエッグ、ロシア正教のイコン(聖像画)など、実にさまざまなものが売られている。
これらの商品は店主の牛塚いずみさんが自ら選び、ロシアのさまざまな場所から持ち帰ったものだ。彼女は何年もの歳月をかけ、それぞれの民芸品の発祥の地はもちろん、そこで工場や工房を訪ね、生産工程を学んでいる。
小さな店の経営者にとってロシアから商品を仕入れるのは容易なことではない。牛塚さんはこれまで数々の問題に直面してきた。とりわけ多いのが税関に関する問題だという。しかし様々な困難を乗り越え、「いりえのほとり」には、すでに14年にわたってロシアからの商品が定期的に届けられている。
牛塚さんがロシアを初めて訪れたのは今から15年前のこと。しかしロシアへの愛が芽生えたのはもっと早く、子供時代だったという。「小さいころからロシアの物語や絵本を見ましたが、すごく日本とは世界が違っていて、その幻想的な世界にすごく惹かれてたんですよ。大人になってから、ロモノーソフという陶磁器を見たときに、自分の中にある絵本の世界が、ロモノーソフの食器に描かれてて、どうしてもこの食器工房に行きたかったのです。その食器工房がサンクトペテルブルクにあるので、十五年ぐらい前にそこに行ったのがきっかけで、初めてロシアに行って、その食器を見て、もっともっとロシアが大好きになりました」
それから彼女はロシアを頻繁に訪ねるようになり、さまざまな都市を旅し、地元の伝統、料理、民芸品に触れるようになった。現在、「いりえのほとり」のショーケースに入っている民芸品のひとつひとつについて、彼女は地元の工房でその作り方を細かなディーテールに至るまで勉強した。
「ロシアにこういう民芸が昔からあると言えばもうすぐその工房に行って、作り方、歴史、いろんなものを教えてもらって、自分の頭の中にたたきこんで、手で覚えて、こっちに仕入れて皆さんに伝えています。私は工房で一から民芸品を作らせてもらいます。そうしないと、自分でその民芸品がどんなものか分からないので、クレイドール、ベレスタ、ホフロマ、マトリョーシカなど、全部作ったことがあります。作り方がどんなに難しいかを感じると、実質が分かるのです」
お店ではロシア民話の絵本も売られている。これらの民話に牛塚さんはかつてとても感銘を受けたのだという。「マーシャとくま」、「アリョーヌシカとイワーヌシカ」、「3匹のくま」、「おだんごパン」など、色鮮やかなイラストが魅力のこれらの本はロシア語ができる人のためのもの。ロシア語ができない人には、おとぎ話のストーリーが描かれたポストカードのセットがオススメだ。それぞれ日本語で短い説明が添えられている。
「いりえのほとり」という店の名前も文学にちなんだものだという。「いりえのほとり」というフレーズはロシアの口承叙事詩を基にしたアレクサンドル・プーシキンの詩「ルスランとリュドミラ」の序文から取ったのだそうだ。
牛塚さんに促され、筆者はショーケースの下にある戸棚の扉を開ける。すると中にはプラトークを頭に被った伝統的な女の子のマトリョーシカからチェブラーシカ、ネコ、レーニンなど、ありとあらゆるマトリョーシカが大量に並んでいる。
店を訪れる人々がもっとも興味を持つのはやはりマトリョーシカだ。マトリョーシカといえば外国人の間でもっともよく売れているロシアのお土産であり、それは驚くべきことではない。しかし牛塚さんはこれについて次のように説明してくれた。「日本の民芸品は地味な感じでロシアのように鮮やかなものがあまりないので、マトリョーシカの彩りの面白さが日本人に好まれると思います」
ここにはありとあらゆるマトリョーシカがある。たとえばマリ・エル共和国の職人の手による三角のマトリョーシカ。ひとつひとつにロシアのさまざまな地方の民族衣装が描かれている。あるいは大きなネコの中に子ネコが10匹も入っているというネコマト。これはニジニ・ノヴゴロドのセミョーノフのネコだ。またレフ・トルストイの翻案としてロシアで有名なおとぎ話「3匹のくま」の登場人物である女の子のマーシャ、くま、雌のくま、子ぐまが入ったマトリョーシカ。そしてもちろん新年前のシーズンもののジェット・マロース(ロシア版サンタクロース)や雪娘のマトリョーシカシリーズもある。
牛塚さんにお話を伺っていると、10分も経たないうちに何人かの客が店内に入ってきた。正直、ロシアの民芸品が日本人の間でこれほど人気があるとは思いもしなかった。牛塚さんが言うには、訪れる人のほとんどが年齢を問わず女性だという。しかし最近は男性のコレクターが頻繁に店を覗くようになった。
数ある商品の中で、石塚さんの誇りは、ロシアで「メドヴーハの都」と呼ばれるスズダリから直接運ばれてきたメドヴーハだ。
牛塚さんは店を訪れる人にメドヴーハの試飲を勧め、この昔からのロシアのものでありながら、外国ではほとんど知られていない飲み物の歴史についてひとりひとりに語ってきかせる。
メドヴーハというのは低アルコール飲料(アルコール度数5〜16%)で、ハチミツを発酵させて作られている。主な原材料はハチミツ、水、イースト、香辛料、そしてベリー。
古代ルーシ時代(9〜13世紀)、ハチミツは宴会には欠かせない一品だった。当時、ハチミツは何年もの間、樽にいれて保存されていた。メドヴーハ作りの技術は時代とともに変化したが、発酵プロセスのスピードを上げるため、ホップ、イースト、砂糖が加えられるようになった。17世紀頃にはウォトカやワインに取って代わられたメドヴーハだが、ソ連時代になるとまた人気を取り戻した。養蜂家たちは出費を抑えるために、販売に向かないハチミツをイーストで発酵させ、甘いアルコール飲料を作るようになったのである。
このメドヴーハ、牛塚さんにとっても特別な飲み物だという。「15年前に初めてロシアに行った時、のどを痛めました。せきが止まらなくなって、友人のお婆ちゃんが自家製の自分で作ったメドヴーハを一本持ってきてくれました。すごくおいしくて、お酒なんですけど、500ml全部飲んだんですよ。自分で持って帰ると言ったら3本ぐらいしか持って帰れないから、輸入しようと思いました。それからいろんな所でメドヴーハを試して、輸出できる会社を全部当たって、一番おいしかったのはこのスズダリのメドヴーハで、一番日本人に合うと思いました」
このメドヴーハ、ロシア人の間でもそう一般的なものではなく、どこの店でも買えるわけではない。しかし天然の原材料で作られた伝統的な飲み物として、また事実、風邪の薬として人気を博するようになっている。
興味深そうにメドヴーハを試飲する人々(車を運転する人を除く)の様子を眺めていた。女性はたいてい最初は「結構です」と断っていたが、メドヴーハは強くなく、女性にとっていいお酒であり、二日酔いにもならないという牛塚さんの説明を聞いて、このハチミツ酒に口をつける。「飲んでみたら、すごいあっさりしていて、おいしい」。そんな感想が聞こえてくる。
牛塚さんの説明によれば、日本ではハチミツがあまり採れないため、値段が高い。一方、輸入したハチミツは殺菌されているため、発酵には適さない。メドヴーハを作るにはバクテリアが生きている新鮮なハチミツが必要なのである。ロシアではハチミツがたくさん作られているため、深い味わいのメドヴーハを作ることができる。
「ロシアの本来のお酒といえばヴォッカだと皆は思いますが、もっともっと昔からあった、こんな質のいいお酒があることを知ってもらいたいです。だから今からいろんな人に試飲してもらって、一から少しずつ広げていこうと思っています」
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