「#MeToo」はクリアできない:歴史的大物5人のセクハラその他

カルチャー
オレグ・エゴロフ
 ポール・ゴーギャンの絵画の展示を禁止しようという声が上がっている。彼が、未成年のタヒチ女性に怪しからぬ行為に及んだから、というのがその理由だ。そこで我々も、ロシアの歴史をひもとき、今日では非難されるだろう「蛮行」をやらかした歴史的人物を見つけ出した。そして、全員にアメリカ式の厳罰を加えてみた。ちなみに、見出しの「#MeToo」(私も)は、ご存じSNS用語で、セクハラ、性的暴力などの被害を告白、共有する際に使われる。

 いやあ、大変な時代に生まれたものだ!11月28日、ニューヨークタイムズ紙に、ポール・ゴーギャン(言わずと知れた19世紀のポスト印象派の画家)についての記事が掲載された。とくにロンドン・ナショナル・ギャラリーでの彼の作品の展示を問題にしているのだが、その記事は題して「ゴーギャンの展示をキャンセルすべき時が来たか?」

 これは、展覧会のスポンサーが、タヒチで数年間を過ごしたゴーギャンに成り代わり、ずばり聞いたものだ。私、ゴーギャンは、「若い女性と何度も繰り返し性的関係を結び」、「特権的な西洋人としての自分の立場を利用した」。このまま展示され続けてよいのか、と。

 こうした状況を受けて我々は、ロシア文化、ロシア史の大物たちに同じアプローチを試してみることにした。正義を渇望する怒れる我々が、ハラスメント、虐待を行った人々の遺産を完全に禁止していたとしたら、どうなっただろうか?

1. ピョートル1世(大帝〈1672~1725年〉)

 ピョートル大帝は、ロシアをヨーロッパ風の帝国に変貌させ、その最も美しい都市の一つ、サンクトペテルブルクを建設した。しかし、当時の君主の多くと同様に、漁色にも精を出し、粗暴な振る舞いにも及んでいる。まずは、鼻についた最初の妻、エヴドキヤ・ロプヒナを修道院に幽閉した(修道院なら自分の目につかないし、気にならない!)。

 後にピョートルは、息子の皇太子アレクセイを、「始末」するよう命じたと考えられるが、それは、「女」とは関係なかった。

 ピョートルの二人目の正妻はどうか。彼女は後のエカテリーナ1世で、夫の死後に即位してロシアを治めた。彼女はもともと、ピョートルの側近、アレクサンドル・メンシコフの愛人だったのだが、ピョートルが気に入り、「自分のもの」とした。18世紀には、この手の「紳士」が蔓延していた。

 :サンクトペテルブルクを焼き払うべし。それは、明々白々な虐待者によって建てられたものであるから、地上から抹殺されるに値する!

 

2. ミハイル・クトゥーゾフ(1759~1813年)

 クトゥーゾフは、ロシア史上最も偉大な軍司令官の一人だ。1812年の祖国戦争でロシア軍を率いて、ナポレオンを破り、フランス帝国のヨーロッパ支配を終わらせた。それ以前もクトゥーゾフは、数十年の軍歴の間に数々の勝利を収めている。しかし、明らかに彼は、21世紀の男性に大いなる道徳的模範を示しはしなかった。

 問題は、クトゥーゾフが、当時の高級将校の多くがそうであったように、戦場にもしばしば愛人を連れて行ったことだ。「露土戦争のさなか、彼の愛人の一人は14歳だったが、彼はもう60歳になっていた」。歴史家アルセニー・ザモスチアノフはこう指摘する。19世紀にはこんなことは誰も気にしなかったが、21世紀には恥ずべきことだ。

 罰:ツイッターに一連の長~いメッセージを載せ、クトゥーゾフは、一般の人が信じ込んでいるのとは「違う」人間だということを知らしめる。それから、1812年の祖国戦争の結果を非難し、スモレンスクと他のいくつかのロシアの都市をフランスに引き渡す。

 

3. アレクサンドル・プーシキン(1799~1837年)

 ロシアの「国民詩人」プーシキンは、「我々のすべて」と呼ばれるほどで、女性にももてたが、彼の振舞いは常にスマートなわけではなかった。

 例えば、アンナ・ケルンは、彼の最も有名で叙情的な恋愛詩の傑作、「私は妙なる瞬間を覚えている…」をインスパイアした女性だが、その彼女から「望むもの」を手に入れた後、彼は、ごく卑俗な調子で友人に手紙を書いた。「おかげで、ケルンとやったぜ」

 おまけに、農奴の女性との関係も、少なくとも一つは資料で確認されている。当時、農奴は基本的に貴族に対して「ノー」と言う選択肢はなかった。

 オリガ・カラシコワを妊娠させた後、プーシキンは彼女を遠ざけたうえ、友人の一人に尋ねた。「赤ん坊の面倒をみてくれないか…もしそれが男の子ならね」

 罰:プーシキンのすべての作品を焼く――彼が賞賛したサンクトペテルブルクと一緒に。彼のすべての記念碑を破壊し、彼の詩の犠牲者のために、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のホットラインと避難所を開設する。プーシキンがこんな男だとは、誰も考えもしなかったから、彼の悪行を見つけたときは、その衝撃に耐えられないだろう。

 

4. レフ・トルストイ(1828~1910年)

 トルストイは、長編『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』などで知られる19世紀の文豪だ。しかし第一に、彼もまた農奴の女性と関係していた(そして、彼女から息子が生まれたが、決して認知しなかった)。

 第二に、当時のロシア社会に関する彼の見解はかなり「進歩的」だったとはいえ、こと女性観については、まったくの保守派だったと言わざるを得まい――とくに女性解放をめぐるあらゆるナンセンスを考慮すれば。

 「彼は常に、女性の権利の自由と平等に反対した」と妻ソフィアは書いている。「彼はこう言い放った。その女性の仕事がどんなものであれ――教育、医学、芸術その他なんであろうと――女性の目的はただ一つ、性愛だ。女はそれを得ると、他のすべてを投げ捨てる、と」。いやはや、何という女性蔑視か!

 ソフィアの生涯は概してしんどかった。トルストイは自分なりに彼女を愛しており、結婚後に浮気はしなかったが、それでも彼は恐ろしい夫だった。これに関する記事はこちら

 罰:トルストイのあらゆる著作を処分し、それを女性の権利拡大に関する本に置き換える。また、彼の著作にあまり接していない女性を集めて、生前の彼がいかに恐るべき男だったかを話して聞かせる。さらに、潜在的なトルストイ主義者がホンモノになるのをできるだけ防ぐために、主なスポーツイベントのハーフタイムでは、(スーパーボウルのコマーシャルのような)ビデオを丸ごと放映する。

 

5. ピョートル・チャイコフスキー(1840~1893年)

 ロシア最高の作曲家の一人であるチャイコフスキーは同性愛者だった。しかし、アメリカの俳優ケヴィン・スペイシーがそうであったように、チャイコフスキーが21世紀に生きていたら、同性愛者だからといってセクハラの告発を免れることはなかっただろう。彼は、その日記と手紙によると、使用人を含む何人かの未成年の少年たちと関係していた。

 もっとも、それは作曲家が性的虐待者だったということではない。彼は自分の恋人を「よく扱っていた」。

 例えば、チャイコフスキーの伝記作家アレクサンダー・ポズナンスキーによれば、彼の召使だった元農奴アレクセイ・サフロノフは、「『ベッドメイト』から大切な友人に変わっていった。サフロノフは結局、チャイコフスキーに祝福されて結婚したが、彼が死ぬまでその家庭にとどまった」

 にもかかわらず、現代の聖なる道徳の審判は、あっさりチャイコフスキーを児童への淫行で非難し、彼の遺産全体を踏みにじりかねない。

 罰:チャイコフスキーの作品は、明らかに彼の罪を背負っているので、演奏をやめるべし。歴史上の怪物について議論するときは、彼を、イギリスBBCの司会者、ジミー・サヴィルと同列の犯罪者として扱うこと。しかし、より重要なのは、公共の場での彼の音楽の演奏を禁止すること。そして、カフェの所有者が誤って違反した場合は、その道徳的な苦痛を法的なものにすること、つまり法的に罰することだ。それでもなおそうしたことが起きたら、ツイッターで一連のハッシュタグを作成して、「性的虐待者の芸術を演奏した」かどで、その喫茶店を恥じ入らせ、客が来ないようにする。

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 以上のことから結論を導き出せるとすれば、こういうことだ。遠い昔に生きた作家、芸術家、君主を現代の視点から断罪するのも、彼らの私生活の醜行のためにその作品を非難するのもナンセンスである。

 ロシアのジャーナリスト、ユーリー・サプルイキンが指摘したように、「ゴーギャンは、『健全な関係を促す』ことが期待されるロマコメと同列に裁くことはできない」。これは、他の歴史的人物にも言えることだ。

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