文豪トルストイは妻にとって悪夢のような夫だった?

Pixabay, Planetzerocolor/Wikipedia, ミハイル・オゼルスキー撮影/Sputnik
 19世紀ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828~1910)は、数々の作品の中で家庭の幸福とその意義を描いた。しかし舞台裏でのトルストイは、妻ソフィアにとって悪夢のような夫だったかもしれない…。その理由はここにある。

1.妻に対しても奇怪な露悪癖を示す

 レフ・トルストイと妻ソフィア・ベルスとの夫婦生活は、19世紀ロシアには――いや、おそらく古今東西を問わず――およそ尋常でない始まり方をした。

 34歳だったレフ・トルストイ伯爵が、宮廷医の令嬢、18歳のソフィアにプロポーズしたとき、彼は自分たちの間に秘密がないことを望んだ。で、結婚前に、トルストイはソフィアに自分の日記を読ませたのだが、そこには彼の過去の女性関係が記されていた。そのなかには、多数の娼婦のほか、既婚の農婦の愛人アクシーニャのことも生々しく描かれていた。この女性とトルストイとの間には私生児も生まれている。

 ソフィアは、将来の夫の女性遍歴を読まされて衝撃を受けたものの、結婚した。

 「彼の過去のすべてが私には恐ろしく、私の心が平安を取り戻すことは決してないだろう」とソフィアは書いている。「彼は私にキスする。すると私は考える。彼がのぼせ上ったのは初めてではないと。私ものぼせ上ったことはあるけど、それは想像裏の話。彼は本物の可愛い女たちを相手にしていた」

 ずっと後のこと、ソフィア夫人が60歳を超えた時分、夫人はまたトルストイの日記に立ち戻る。今度は、自分の名誉を損なう何かの記述を取り除こうという強迫的な欲求で。彼女は、その後何世代にもわたって自分が悪妻として記憶されることを恐れた。夫はしばしば彼女を軽蔑し批判していたから。研究者のなかには、実際トルストイがソフィアの要求により何箇所かの記述を抹殺したと確信している者がいる。

 トルストイは、保守的な家族から無垢な少女を選ぶことによって、自分の「若気の至り」を「浄化」したいと思ったのかもしれない。彼女の存在が自分を正してくれると当てにして。その結果、こういったことすべてが生じたのかもしれない。だが残念ながら、彼は、「無垢な少女との結婚」によって青春期の強烈な肉欲から解放されはしなかった。

 逆にトルストイは、「女」としてのソフィア夫人に不満を感じ続けることになる。それはもちろん夫妻の生活を難しくした。彼は結婚を機に、数年続いたアクシーニャとの関係を断ったが、ずっと後年まで愛人に未練を残している。

2.生涯にわたり自分の欲望をもてあます

レフ・トルストイと妻のソフィア、1888年。

 トルストイは、一生の間自分の好色を持て余した。

 「私は自分の欲望を克服することができない」と、若いころ彼は日記に書いている。「この悪徳(娼婦買いを指す――編集部注)は自分の習慣になってしまった」

 当時のもう一つの記述。「女と寝なきゃならない。さもないと、この欲求のせいで居ても立っても居られない」

 なるほど、トルストイの日記、手紙などから判断して、彼が妻を熱愛した時期があったのは確かだ。「家庭生活の新しい条件は、人間存在の意味の探求から、完全に私をそらしてしまった」。彼はこう日記に記している。

 しかし彼は、結婚生活の中でソフィアに多くのことを要求した。おそらく頻繁なセックスを含めて。彼女が13人の子供を産んだと言えば十分だろう(そのうち5人は早世している)。

ソフィアと子供のターニャとセルゲイ。

 トルストイは、それでなくても大変な出産をいよいよ苦しいものにした。妻が妊娠して性交できなくなると、またも彼は、自分の村の農婦たちに未練たらしい目を向けたから。自分の領地の村で彼は、地主および伯爵として、彼は事実上無制限の権力を持っていた。

 結婚生活の当初、彼はソフィア夫人に、こう誓った。「私たちの村の女とは関係を持たない。稀にはそういうチャンスもあるが、私はそれを求めることなんかしないし、だから防ぐこともしない」。彼が明らかに問題を抱えていることを明確に示す、手の込んだ表現だ。

 しかしトルストイは自分の問題の原因を妻に帰し、日記にこう書いている。

 「二つの極――熾烈な精神の探求と強力な肉欲。両者が激しく戦っている。私は自分自身を持て余している。私はその理由を探す。タバコ、自制心がなく、想像力が働いていないこと。が、これらは些細なことだ。理由の一半は、愛し愛される妻がいないことだ」

 それでも、トルストイと妻との関係はとても深いものがあり、彼女がお産で苦しむと、自分も苦しみ、ベッドの脇で夜を過ごした。

 ソフィアはトルストイに次のような手紙を書いている。

 「このあらゆる喧騒のなかにあって、あなたがいないのは、魂がないまま取り残されているようなもの。あなただけが、詩と魅力をすべての存在に加えて、それらをある程度の高みに押し上げることができる。でも、これは私の感じ方ね。私にとっては、あなたがいないと、すべてが死んでいる。私は大好き…あなたの好きなものが……」

 ソフィアのトルストイに対する感情は、彼女の彼への手紙から判断すると非常に深かった。たぶんこれが、二人の結婚生活が最後まで続いた理由だろう。もっともそこでは、社会的規範も一定の役割を果たしていたろう。19世紀のロシアでは、とくに貴族の場合、離婚すると世間的に良い評判を保つことはできなかった。

3.彼は妻に家事をほぼ丸投げにした

ヤスナヤ・ポリャーナでのトルストイの家族

 ソフィアが結婚後、トルストイの領地ヤースナヤ・ポリャーナにやって来たとき、最初それが粗末で乱雑なのにショックを受けた。彼女は食器類から毛布まですべてを管理しなければならなかった。そして請求書(家計)と邸宅およびそれに接する建物の維持を担当するようになる。

 子供たちの育児、教育もソフィアの仕事ということになった。トルストイは子供と遊ぶことは時々あったけれども、ほとんどの時間は、執筆または彼の崇拝者や仲間との付き合いに忙しかった。

 その間ソフィアは、子供に音楽と礼儀作法を教え、服を着せ、食事を与えた。トルストイは、当時の富裕な貴族が抱えていた乳母や執事を置きたがらなかったので、彼女はこれらすべてを自分でやった。しかしトルストイは、これらはすべて母親の仕事だと思い込んでいた。

 ヤースナヤ・ポリャーナは、風光明媚であるが、生産性の低い土地で、多くの問題を抱えていた。農民たちは、助けを求めたり、金を借りたり、隣人について文句を言ったりするために、地主の家にやって来た。これもまた、ソフィアの双肩にのしかかった。彼女の仕事の中には、自分の金で建てた村の診療所も含まれていた。

 大事なことをひとつ言い残したが、ソフィアは夫の作品の筆記者、秘書および代理人だった。彼女は、やはり夫の文芸事業を担っていた、もう一人の文豪の妻、アンナ・ドストエフスカヤにも、それについて相談している。ソフィアは夫の読みにくい手書き原稿を判読し、彼の作品の多くを清書し、編集した。彼女は、超大作『戦争と平和』の全文を7回も清書している。 

* * *

レフ・トルストイとソフィア・トルスタヤ。クリミア、1900年ごろ。

 トルストイはその後半生に、「トルストイ主義」と呼ばれる思想を構築していったが、それは結局、彼を家族から疎外し、正教会から破門させることになった。これは妻との関係にも影響を及ぼした。例えば、トルストイの死につながった家出は、妻の「過剰な心配と干渉」が直接の引き金になったもので、彼はそうした干渉を余計なことだと考えていた。

 トルストイの妻に対する不公平で、時に敵対的な扱いにもかかわらず、この作家の文学的才能と作品が守られたのは、明らかにかなりの部分ソフィアのおかげである。彼の周りの人々への多少ぎこちない態度、関係を考えると、彼にもしこの献身的な配偶者がいなかったら、彼が仕事に専念できた時間ははるかに少なくなったことだろう。

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