1. 彼の小説はソ連でも地下出版で読まれ、感嘆されていた
オーウェルはわけあってロシアの読者にとても近かった。第一の理由は、長編『1984年』と中編『動物農場』が、明らかにソビエト社会を風刺したものだったということだ。第二の理由は、長年ソ連で発禁だったことである。当時の人々は、発禁になるのは現実世界に影響を与え得る傑作だけだと知っていた。
1960年代にはオーウェルの作品が地下出版され、一夜の読書に入手することができた。最近オーウェルの伝記を著したヴャチェスラフ・ネドシヴィンは、新聞『コムソモリスカヤ・プラウダ』の同僚とそうした読書の夜を過ごしたことを述懐している。
「私はよく覚えている。編集室の扉の鍵を閉め、電話のダイヤルを引っ張って鉛筆を挟んだ(こうすれば盗聴を防げると言われていた)。そして声を潜めて話が始まった。想像を絶する、限度を超えた、恐ろしいほどあり得ない話だ。自分の新聞が巨大な『真実省』の一部に過ぎないと知り、心がずきずきと痛んだ。電話機を『切る』のがKGBに対してではなく世界中の全員を『見て』いる『ビッグ・ブラザー』に対しての防衛策であると知った。そしてスターリンやフルシチョフ、もはや代わりのいないブレジネフが、権勢欲の強い『豚のナポレオンとスノーボール』に過ぎないと知った(この時心臓が胸から飛び出しそうになった!)」。
ネドシヴィンが受けた印象は相当のもので、彼はディストピアに関する学位論文を書き、ソ連で初めて『1984年』の文献学的分析を行い、共訳者として『動物農場』のロシア語訳にも携わった。彼は、自分の著したオーウェルの伝記が、これから書くだろうたくさんの伝記の一つに過ぎないと考えている。
2. ソ連と社会主義に対するオーウェルの愛と憎しみ
当初ロシア革命に対する共感はイギリスでは非常に強く、革命思想がイギリスを埋め尽くしていた。オーウェルの回想によれば、学校の確認テストで10人の卓越した同時代人を挙げるよう言われた際、学級全員がウラジーミル・レーニンの名を含めたという。
オーウェルが学んでいたイートンでは、「ボリシェヴィキ」を気取るのが流行っていた。将来の作家は、イギリスの教養ある未成年の大半がそうであったように、自分を社会主義者と考えていた。
成人した後も、オーウェルは左翼運動に共感していた。1936年、彼はスペインへ行き、マルクス主義統一労働者党(POUM)の一員として内戦を戦った。オーウェルは負傷したが、回復後に戦い続けることはなかった。POUMが反スターリン的だとして禁止されたからだ。義勇軍にとっては、スターリンのような同盟者を持つことが重要だった。
その後、1943年から44年にかけて、オーウェルはロシア革命とスターリン体制を風刺した有名な『動物農場』を書くことになる。この作品はイギリスの検閲官にさえあまりに過激だと受け取られる。戦争の最中、重要な同盟国について出版物でこのような意見を発信することは正しいこととは思われなかった。そのため、この中編小説は1945年まで出版を断られ続ける。
KGBの記録保管所にはオーウェルに関するファイルがあり、そこで彼は「ソビエト連邦に関する卑劣極まりない本の著者」と呼ばれている。彼の名は長きにわたってソ連でタブーとなる。
オーウェル自身は、イギリスでソ連に対する共感が広がらないよう腐心していた。彼が特別なメモ帳に共産主義とスターリン体制に犯罪的な共感を示していると彼に感じられる人々の名を長年書き留めていたことは有名だ。1949年、彼は反共プロパガンダの仕事を提案されたが、同意はせず、代わりに英国外務省に自分が作ったリストを提供した(後に出版された)。その中には、ジョン・プリーストリー、チャーリー・チャップリン、バーナード・ショー、ジョン・スタインベックの名があり、それぞれに印が付されていた。
いくつかの証言によれば、オーウェルは英国情報機関に長い間協力しており、海外での彼の小説の出版費用は情報機関が負担して反ソプロパガンダに利用していたと言われる。
3. ロシア系移民に貧困から救われ、ロシア人作家に恋をした
若い頃、オーウェルは創作のインスピレーションを求めてパリへ行った。後に『パリ・ロンドン放浪記』(1933年)という本で当時のことを語っている。「常に自分のそばにある祭り」の中で生きることを望む作家の多くがそうであったように、オーウェルもまた金銭的に困窮した。餓死から彼を救ったのはボリシェヴィキから逃れてフランスへ来ていた亡命ロシア人だった。彼はオーウェルに、ロシア人革命家らがしばしば集うレストランでの皿洗いの仕事を紹介した。
オーウェルの仲間には数人のロシア人がいた。例えば、彼は、モザイク画とアンナ・アフマートワとのロマンスで知られる亡命ロシア人画家のボリス・アンレプ(ロンドンのナショナル・ギャラリーの入口は彼のモザイク画で飾られている)と知り合いだった。
ロシア人の知り合いには、その他に亡命者のリジア・ジャクソン(ジブルトヴィチ)がいた。彼女は後に作家となり、エリザベータ・フェンのペンネームで活動する。彼女はオーウェルの妻の友人だったが、ある時から彼女と作家は互いに好意を抱くようになった。彼らの間に何があったのか正確には知られていないが、リジアは彼の抱擁やキスにまで応じていた。ただし、これは彼に対する同情によるものらしかった。
4. ソビエトの雑誌『外国文学』と文通をしていた
1930年代から40年代には、全面的な検閲態勢が敷かれていたにもかかわらず、雑誌『外国文学』は西側の小説(長年非道徳的として禁止されてきたジョイスの『ユリシーズ』さえ)の断片や書評を掲載することができていた。編集長のセルゲイ・ジナモフは、1937年にオーウェルに手紙を書いていることが知られている。その中で彼は、書評を雑誌に載せるためと言って、関心のあったオーウェルの本『ウィガン波止場への道』を一冊送るよう頼んだ。
数ヶ月後彼はオーウェルから返事を受け取った。作家はスペインから帰ったばかりだと言い、すぐに返信できなかったことを詫びた。また、この本で表明したいくつかの見解を見直したことを説明した。彼は手紙に本を添えたが、スペインで反ソ的な姿勢を取るPOUMの側で戦っていたことを編集長に断っている。「私がこのことをお伝えするのは、貴誌がPOUMの一員の刊行物を掲載したがらないかもしれないからです。歪んだ紹介のされ方は望みません。」
編集長はこの手紙をNKVD(内務人民委員部)に渡さざるを得なかった。オーウェルには正直に事実を伝えてくれたことに礼を言いつつ、関係を絶たざるを得ないと返信した。
5. オーウェルはロシアのディストピア小説『われら』に感嘆していた(その後『1984年』を書いた)
エヴゲーニー・ザミャーチンの小説『われら』は1920年に書かれたが、ソ連では発禁となり、1927年になってようやく西側で出版された。オーウェルがそれを読んだのはずっと後で、1946年にその書評を書いている。
彼は『われら』を控えめに言っても非凡と評し、どの英語系出版社もこの本を10年以上再版していないことに驚きを表明している。オーウェルにとって非常に印象的だったのは、ザミャーチンが恐ろしいスターリン時代よりも前、つまりどういう事態になるか推測できない頃にこの本を著したこと、そして彼の風刺が社会の工業化に向けられていたことだった。
その他、オーウェルは、ザミャーチンの小説とオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』との比較に特別な注意を払っている。その上で、ハクスリーがザミャーチンから多くの要素を借りていることを暴いている。とはいえ、『われら』はオーウェル自身にも影響を与え、多くの文学研究者が『1984年』にザミャーチンとの類似性を見出している。