きっかけは、夫で同じく元ボリショイバレエ団のソリストとして活躍していたアレクサンドル・ヴラジーミロヴィッチ・ヴァルエフ(サーシャ)さんだった。当時スタニスラフスカヤ(ダンチェンコ)劇場のピアニストであった友人が日本人学校にゆかりがあり、現役引退直後のサーシャさんに声をかけた。ひょんなことから始まったサーシャさんの日本人向けレッスンであったが、「毎回本当に楽しそうに教えていました。サーシャは生徒に情熱的に向き合うからレッスン中は厳しくて。でもユーモアやジョークがとても大好きだったから、よく大きな笑い声も起こっていました。生徒たちからとても慕われていました。」とオーリャさんは当時を振り返る。
1985年、「ドン・キホーテ」に出演時のオーリャさん
サーシャさんは今から約5年前、病気で他界する。病気が判明した後も、この世を去る直前まで日本人にバレエを教え続け、多くのバレエ関係者や生徒たちに見守られて旅立ったという。そんなご主人の姿を側で見守り支えてきたオーリャさんは、自身でこのレッスンを引き継ぐことを決意した。
1982年、「黄金時代」を踊るオーリャさん(写真中央左)とサーシャさん(同右)夫妻
Personal archive当時ボリショイバレエ団は海外への出張公演も多く、オーリャさんらも団員として計6回日本を訪れた。定番の「白鳥の湖」に始まり、「くるみ割り人形」「ジゼル」「ドン・キホーテ」「愛の伝説」と踊った演目は数知れず。東京、大阪をはじめ横浜、札幌、名古屋、博多等日本全国の都市を約2か月で回るハードなスケジュールだったという。
1987年頃、「ライモンダ」に出演したサーシャさん
Personal archive「大変ではあったけれど、当時18歳の私にとっての日本訪問は、それは刺激的な経験でした。見るもの全てが驚きでした。」と、今でもあの時の興奮が忘れられない。今でこそ日本料理やアジア料理のレストラン等が立ち並ぶモスクワだが、1978年当時まだソ連だったこの国で生まれ育ったオーリャさんにとって、高度経済成長を遂げた直後の日本はとてもまぶしく映ったことだろう。「日本公演の時に買った雑貨やワンピースを今も大切に持っています。日本のデザインは美しいし、品質は素晴らしいから。今日の服だってユニクロですよ!」とおちゃめに笑う。
サーシャさんから引き継いだレッスンは、当時から変わらず日本人学校敷地内のスタジオで行っている。レッスンには初心者も多く参加していること、そして月謝制やチケット制等ではなく、好きな曜日に参加してレッスン後に代金を支払うシステムも、当時から変わっていない。バレエを踊りたい気分の人、バレエをうまくなりたいと思う人が、好きな時にバレエに親しめる雰囲気づくりに努めている。オーリャさんのモットーは、生徒が体で“動く”ことの楽しさを感じられ、リラックスして心からバレエを楽しめるようなレッスンにすること。「“動く”―それは人生そのもの。バレエは心まで豊かにしてくれます。その素晴らしさを皆さんに伝えたい」と語るオーリャさんは「自分にとってバレエとは人生であり、仕事であり、喜びであり、愛である」と言い添える。
2011年、6年間の大修復が完了して再開したボリショイ劇場本館を娘と訪れた。展示されたパネルにサーシャの姿。
Personal archive参加している生徒達に話を聞いた。「日本では全くバレエをしたことがありませんでした。ロシア文化を知ることが出来ればと軽い気持ちで始めたところ、今ではどっぷりとハマってしまいました。」と語る彼女は、今では週3回先生のレッスンを受けているという。バレエ経験者の生徒達も「オーリャ先生は、正統派のロシアバレエを、とても丁寧に優しく教えてくれます。先生の動きは本当に美しくて、とても合理的。ボリショイ流を体感できる貴重なレッスンです」「長いブランクがありましたが、難しいテクニックを要求するのではなく、バレエに必要な所作、姿勢、表現力を一つ一つ丁寧に教えてくれる先生のレッスンが大好きです。」と語る。
オーリャさんのバレエ教室
Personal archive「日本人の皆さんに教えるのはとても楽しいです。いつも真面目にレッスンに取り組んでくれています」とオーリャさんは語る。生徒全員の名前を必ずおぼえて、「さん」づけで呼ぶのだというが、実はオーリャさんは日本語が殆ど出来ない。ロシア語と英語に加え、長年の生徒たちとのやりとりから覚えた「あたま」「みぎ・ひだり」「ひざ」などの単語を組み合わせて教えている。しかしながら、レッスンはいつも生徒達の笑い声で溢れており、和やかな雰囲気が流れている。「私は日本語が話せないけれど、いつも皆さんには私の心からの思いが伝わっていると信じています。」まさにバレエの動きを通じたコミュニケーションである。
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