ブブノワ姉妹:愛と友情の音と色

 あらゆるロシアの画家のなかで最も日本的であり、かつまた、あらゆる日本の画家のなかで最もロシア的なのがこの人、ワルワーラ・ブブノワだ。一個の人間が、その生涯と作品のなかで、露日両国の文化を見事に有機的に融合させた稀有なケース――。彼女は、そのなかで最も著名な人物の一人だろう。

自画像(1962年)紙、パステル

 ワルワーラ自身は、その成功の秘密を次のように説明していた。「他国の文化をすぐに理解するのは難しい。それは外国語のようなものだ。外国語の文学作品を楽しみ、言葉が本当に分かるようになるくらいの勉強が必要だ。外国の芸術を理解するのはもっと簡単かもしれないが、心の広さと、その民族の創造力への信頼が不可欠である」。

 ブブノワ姉妹は日本人を信じ、日本人は姉妹を信じた。

女性のいる光景(1930年代初め)、自画石版(多色)

姉妹の生い立ち

  ワルワーラ・ブブノワは、1886年にサンクトペテルブルクの文化、芸術を愛好する家庭に生まれた。家族は、先祖の領地を詩人アレクサンドル・プーシキンが一度ならず訪れたことを誇りにしていた。ワルワーラも、1890年生まれのアンナも、そして長姉マリアも、芸術の道に進んだことは驚くにあたらない。アンナとマリアは音楽家になったが、ワルワーラは、早くから絵画で才能を現し、1914年に帝室美術アカデミーを卒業すると、アール・ヌーボーの画家として知られるようになり、マレーヴィチ、ブルリュークらとともに展覧会に出品した。 

馬(1931年)、自画石版

日本のヴァイオリニストの“母”

  一方、おなじ頃アンナは、音楽院のヴァイオリン科で学んだが、日本人留学生の小野俊一(生物学者)と出会い、まもなく1917年5月に結婚する。

 夫妻は、革命と戦乱を避けて日本に逃れ、東京に居を定める。彼女は、東京復活大聖堂、通称ニコライ堂に通うようになるが、そこでアンナは、子供たちのためのヴァイオリン教室を開くことを思い立つ。

 こうして生まれたのが音楽塾「ルリロ」。当時流行していたエスペラントで、揺りかごという意味だ。ルリロは実際、日本のヴァイオリニストの揺りかごとなり、約2千人の児童たちがここで学んだ。アンナの教え子のなかには、諏訪根自子、巌本真里、前橋汀子、潮田益子ら日本を代表するヴァイオリニストがいる。

赤い服を着た女性の肖像(1966年)

 1922年、小野夫妻は、ワルワーラを日本に招いた。母をともなって妹を訪ねにやって来た彼女は、ここでほとんど全生涯を過ごすこととなった。

日本美術に魅せられて 

 ワルワーラはたちまち、日本のユニークな芸術に魅せられた。「それらの作品は、最大限の精神的内容を、最小の身体の動きと素材で創り出していた」。

 日本の中世絵画に夢中になった彼女は、東京美術学校で、浮世絵と、とくに水墨画を学び、インスパイアされた。

 まもなく彼女は、亜鉛による白黒のリトグラフの画塾を開いた。彼女のスタイルは、日本のそれに近いが、同化してしまうことはなく、独自性を保っていた。逆に、日本の画家のなかに彼女に倣う者が現れた。こうして、日本の美術はロシア・アヴァンギャルドと交差したわけだ。

スフミ、夕暮れ(1965年)、紙、水彩、グワッシュ

 「ブブノワの作品は、初めて、リトグラフの芸術としての可能性を開示してくれた」というのは、プーシキン美術館の日本絵画の専門家アイヌラ・ユスーポワ氏。

雨(1957年)、光沢紙、石版

 ワルワーラ自身が、日本絵画の影響を受けていることを自認して、こう記している。「私は、ロシア絵画の原則を保っているが、日本美術は多くのことを教えてくれ、版画の表現力を拡大した」。

天性の教育家

プーシキン作品の日本語訳のための挿絵

  ワルワーラは、日本で6度の個展を開いている。今では彼女の作品は大変高額だが、画家が生前に認められることは珍しく、彼女も例外ではなかった。彼女はロシア語を、初めはルリロで、それから早稲田大学と東京外国語学校で教えねばならなかった。

 ここで、ワルワーラの第二の天与の才が花開いた。彼女の教え子の多くが、優れたロシアの専門家となっている。

 彼女はまた、プーシキンの作品(『エヴゲーニイ・オネーギン』、『スペードの女王』など)の日本語訳のための挿絵も手がけた。

 ワルワーラの日本での生活は決して楽なものではなかったが、彼女は自分を幸せ者だと考えていた。

オノ・ヨーコの最初の先生 

 しかし1923年には、関東大震災で、彼女の家と作品は灰燼に帰した。1933年には、恐ろしい不幸に見舞われた妹アンナを支えねばならなかった。一人息子の俊太郎が13歳で亡くなったのだ。俊太郎はこの年で有名なオーケストラの第1ヴァイオリンを務めるくらい優秀だった。そして、これに夫との離婚が追い打ちをかけた。

 アンナは離婚を承諾したが、小野家にとどまり、俊一の第二の妻と親しくなった。そして、やがて生まれた男の子の教育係となった。ブブノワ姉妹は、天性の教育家であり、子供が大好きだった。

 2007年、モスクワで同時に二つの展覧会が開かれた。ワルワーラ・ブブノワとオノ・ヨーコの展覧会だ。専門家は直ちに、ジョン・レノンの妻であったアメリカの芸術家の作品に、ロシア・アヴァンギャルドの息吹を見出した。驚くにはあたらない。オノ・ヨーコの最初の音楽の先生は、アンナ伯母さんであり、絵の先生はワルワーラ伯母さんだったのだから。

帰国 

 ブブノワ姉妹は、スターリンの死後、故郷に戻った。「私が帰国した主な理由は、ソ連が私の母国だからだ」と、アンナは説明している。「でも私は、決して日本のことを忘れない――その美しい山河と、何よりも誠実な日本人たちを」。

 姉妹は、長姉マリアの家に落ち着いた。それは、ソ連南部の黒海沿岸のアブハジア共和国で、その気候は、彼女らが半世紀慣れ親しんだ東京をどことなく思わせた。三姉妹は、アブハジアの首都スフミで教育活動を続けた。

 アンナは、音楽教育の功績により勲四等瑞宝章を授与されている。彼女は、1979年に亡くなったが、日本の音楽家たちは彼女のことを忘れない。「小野アンナ記念会」は、半年に一度、記念コンサートを開いている。

 ワルワーラは、97歳の長寿を全うし、1983年に逝去した。生前、彼女は、ソ連芸術家同盟の会員に選出され、日本政府からは、勲四等宝冠章を贈られている。

「最高の架け橋」 

 歴史家でロシア人亡命者に詳しい青山学院大学・国際政治経済学部ピョートル・ポダルコ教授はこう言う。

 「ワルワーラとアンナのブブノワ姉妹は、長年にわたる文化活動で、亡命ロシア人のなかでも最高の“架け橋”だったのではないか――ロシア文化を愛し尊敬する知識人を輩出した点において」。

 筆者自身はというと、日本人の夫をもつロシア人女性たちと付き合いながら、彼女たちが、またはその子供たちが、かつてのブブノワ姉妹のように、ロシアと日本のために貢献する日が来ることを願わずにはいられない。

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