映画監督の父、舞踏家の母、そして画家の姉という芸術一家に生まれた真沙美さんが同じく芸術の道へ進むことは特に不思議なことではなかった。しかしながら、彼女が外国人プリマバレリーナでありながら、ロシアバレエ界に軌跡を残せたのは、常に新しい夢を持ち続けるその向上心と、人一倍レッスンをこなしてきた努力の賜物に他ならない。
舞踏家の母の影響もあり、3歳からバレエを始めたという真沙美さん。自宅でバレエ教室を開いていたこともあり、幼い頃から常に人が踊っている姿をみて育ったという。
小学校高学年になり本格的にバレエを習い始めると、後に日本バレエ協会初代会長に就任した服部智恵子先生に才能を見出され、「この娘はロシアで勉強させるべきだ」というアドバイスをもらう。
しかしながら1980年代のソ連は「では来月からロシアで勉強しましょう!」となるほど簡単な場所ではなかった。結局長期滞在のビザは下りず、短期ビザで、短期留学を繰り返す形でロシアへ渡った。
短期留学を経て、バレエの魅力にさらに取りつかれた真沙美さんは、日本での高校卒業後、日露学院でロシア語を学び直した。
「ロシアで本気に戦っていくならば、中途半端な気持ちではいけない。まずはロシア語を習得することが不可欠だと思った。」と語る。
ロシア語を1年間学んだ後、ついに長期ビザがとれ、ボリショイ・バレエ・アカデミーの卒業クラスに編入した。そこでの1年間の学びを経て、真沙美さんはロシアから離れたくないという思いを一層強くした。
1989年当時、ロシアは公民のバレエ団が新しく誕生してきた時期でもあり、真沙美さんはダンチェンコバレエ団に入団することが出来た。しかしながら、もちろん、いままでロシア人バレリーナがメインだったこの世界がいきなり、国籍関係なく実力でのし上がっていけるほど、開かれたわけではなかった。真沙美さんは、外国人であること、また年齢が若いということもあり、舞台への出演機会は年に2回しかなかった。
「ただロシアでバレエをやっていれば満足なのではない。もっと舞台で踊れるバレリーナになりたい。」という思いが次の夢になった。
翌年、ロシア国立バレエ団に移籍した。
自分のスタイルに合うバレエ団に巡り合う
ロシア国立バレエ団は、海外公演にも力を入れていたこともあり、舞台で踊る機会も多かった。何よりも芸術監督ゴルデェーエフ氏との出会いが、その後の真沙美さんのロシアバレエ界での活躍を支えてくれたと言っても過言ではない。彼は、舞台に立つべくひたむきに練習を重ねる彼女の努力を、確りと評価してくれた。
「ロシア人だから/ロシア人ではないから、ではなくて、バレエを真剣に取り組み、努力を重ねているところを評価されたことがとても嬉しかった。」と語る。
ロシア人のように背が高いわけではなく、外国人がロシアバレエ界で生き残っていくことは、身体的にも環境的にもハードルが高いことは容易に想像できる。しかし真沙美さんは常に自分の可能性を信じて必死に努力を重ねてきた。
「もちろん、いつもうまくいってきたわけではない。沢山夢があったけど、その殆どは壊されていった。」と笑顔で語った。
人生で唯一バレエから離れた期間
モスクワ大学教授の旦那様と出会い、一人息子マルクさんに恵まれた。海外公演の時には、数か月から半年家を離れることも日常茶飯事だった。正月も殆ど家族と一緒に過ごせたことがなかった。
「息子の成長を全く見てあげられないことが心苦しかった。」と当時の思いを振り返る。
マルクさんが小学生に入学するタイミングでロシアを離れ母子ともども日本へ渡る決意をした。人生で初めて踊ることを辞めたのだ。すっかり日本の学校に馴染み充実した生活を送っていたマルクさんだったが、小学生4年生になったとき、バレエの道を進みたいと言った。真沙美さん親子はまたロシアの地へ戻ってくることになる。
4年のブランクを経て、真沙美さんはレッスンを再開した。またロシア在住の日本人の子供向けにバレエを教える話が舞い込み、教えることも始めた。40歳にして、自身が躍るだけでなく、芸術監督として人に教えるという新たな挑戦が始まったのだ。以来、モスクワ日本人学校バレエスタジオでの芸術監督としての仕事は、真沙美さんのバレエ活動の中でも大きな比重を占めている。
真沙美さんからみたロシア
「日本に比べたらロシアはモノは豊かではないかもしれない。けれど、モノが満足いくものではなくても、ロシアでの生活はとても豊かだと感じている。」と、ロシアの生活について真沙美さんは語る。
「どんな場面でも生き抜く知恵を持っているロシア人には、何度も驚かされた。」と真沙美は続けた。
ボリショイ・バレエ・アカデミー在学中は寮生活だったが、寮の食堂にはバターはあるもバターナイフがなかった。「どうしたものかな・・・?」と思っていたら、ロシア人の同期はフォークの柄でバターを塗り始めた。
海外公演が続くとホテル暮らしが長くなる。滞在先に必ずしもキッチンがついているわけではないと食事事情も決して良いものではない。そんな時、ロシア人の同僚は、ホテルの部屋に置いていたアイスペール(氷入れ)に水と鶏肉をいれてキピチルニク(ソ連時代に使われた水に突っ込むタイプの電熱線)で食事を作り始めた。「モノがなければどうやって目の前の状況を切りぬけようか、頭を使って考える、そんなロシア人のタフさに感心した。」と笑う。
日本の生活とロシアでの生活、一番の違いは文化に触れる機会だと真沙美さんは語る。普段の生活を送っていても、バレエに限らず、音楽、文学と、ロシアでは文化に触れる機会が格段に多いと感じる。せっかくロシアに住んでいるのならば子供をロシア文化に触れさせたいと思う両親も多く、モスクワ日本人学校バレエスタジオでは毎年20〜30人程の生徒がバレエに親しんでいる。幼い時に、ロシアの文化に触れることはきっと子供の感受性をも豊かにしてくれるであろう。しかしながら、日本へ帰国すると受験のための塾通いが忙しく、バレエを続けることができない子も多いと言う。
「もちろんそれは仕方のないことだけれど、やっぱりちょっと寂しい。」と真沙美さんは語った。
新たな夢
50歳になった今でも、モスクワ日本人学校バレエスタジオの芸術監督の仕事と、バレエ団の舞台の両方をこなし、多忙な日々を送っている。「私は忙しくしているのが大好きだし、何よりもレッスンが大好きなんです。」と語る。これからも芸術監督の仕事もレッスンも続けていくつもりだという。
自身のバレリーナ人生で唯一心残りなのは「ジゼル」を演じられなかったことだと言う。「でもバレエの夢は息子のマルクに託そうかな」と嬉しそうに語った。
息子にはロシアと日本という二つの母国があるということで苦労を掛けたことも少なくはないと思う。しかしながら、その息子が、自分の意志でバレーダンサーになるという夢を選択し、それを実現させていっている。ボリショイ劇場の舞台で踊る息子の姿を見られることを、心から誇りに思っているという。