ヒロインの魔女マルガリータのモデルは誰か。ブルガーコフは、最後の妻、エレーナ・セルゲーエヴナを魔女として描いたと、多くの文学研究者は信じている。エレーナは、作家と出会ったとき、マルガリータがそうであったように、やはり自由ではなかった。エレーナの夫は、赤軍の高級将校(陸軍中将で軍事学の大家)、エフゲニー・シーロフスキーだった。
ブルガーコフの研究者、マリエッタ・チュダコーワの考えでは、作家は、エレーナがNKVDに協力していると察していた。この協力関係により、彼が逮捕されなかったこと、または彼の家族が外国人たちとともに夕べを過ごすことが許された訳を説明できるかもしれない。小説のマルガリータは、恋人の「巨匠」を助けるために、サタンと取引する。
チュダコーワの意見では、小説でこのように書くことで、妻を弁護しているのだという。つまり、NKVDへの協力は、もっぱら夫の身の安全のためだというわけだ。
イリフとペトロフは、刑事オシプ・ショルと友だち付き合いしていたが、この刑事は真の冒険好きだった。
サンクトペテルブルクの大学を終えるとショルは、2年間かけて故郷のオデッサにたどりついた――懐に一銭も持たず、多くの冒険を経ながら。これらのエピソードは、小説に取り入れられた。例えば、ぜんぜん絵が描けないくせに、プロパガンダに従事する汽船で画家の職にありついた。まったくチェスを知らないのに、チェスの名人だという触れ込みで、金を取って、同時に何人かと対局した。
『戦争と平和』の主人公の一人、アンドレイ公爵には何人かのモデルがいると考えられる。アンドレイは、小説のヒロイン、ナターシャと婚約するが、紆余曲折を経て破談にいたる。ナターシャのモデルの一人は、トルストイのソフィア夫人の妹、タチアーナだ。そのタチアーナは、トルストイの次兄セルゲイと熱烈な恋に落ち、婚約するが、結婚できなかった。小説のエピソードは、これが下敷きになっていると見ることができる。
だが、アンドレイ公爵の主な経歴については、ニコライ・トゥチコフ陸軍中将(1765~1812)の生涯からとられたと、複数の研究者は見ている。トゥチコフもアンドレイと同じく、軍人として目覚ましく昇進し、1812年、ナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)に際しては、バルクライ・ド・トーリ麾下の第1軍で軍団を指揮する。そしてやはりアンドレイのように、ボロジノの会戦で胸に致命傷を負い、護送された先のヤロスラヴリ市で死ぬ。
もう一人、バグラチオンが率いた第2軍で戦ったドミトリー・ゴリーツィン公爵も、モデルの一人かもしれない。彼は、アンドレイ同様、榴弾の破片で重傷を負い、間もなく死んだ。もっとも、ヤロスラヴリ市ではなく、ウラジーミル市でであったが。
『カラマーゾフの兄弟』の筋のなかには、現実の事件にもとづいているものがある。ドストエフスキーは若き日、10年間にわたりシベリア流刑の辛酸をなめたが、あるときスキャンダラスな刑事事件を耳にする。ドミトリー・イリインスキーという実在の人間が、父親殺しで告発され、投獄されたのである。
作家は、この犯罪者に会ったことがあった。そして、その名をドミトリー・カラマーゾフに与えたのみならず、外見と性格も似通ったものにした。両者は、激しい情熱と高貴さを内心に秘めている。
これ以外にもドストエフスキーは、現実の人物をモデルにして登場人物を描くことがしばしばあった。例えば、アレクセイ・カラマーゾフの師、ゾシマ長老は、オープチナ修道院のアンヴローシー長老(1812~91)にもとづいている。ドストエフスキーは、この作品を書いていた1878 年に長老を訪ねており、ゾシマの庵を、アンヴローシー長老のそれに似せて描いている。
1825年に発表された、グリボエードフのこの戯曲には、チャーツキー という開明的なインテリが登場する。彼は、欧州を長く旅してモスクワに戻ったという設定だ。彼がモスクワで目にしたものは、まったく別世界で、今や彼はいかにも不思議に思う。モスクワの連中は、啓蒙や教育には何ら注意を払わない。古めかしい慣習に従って暮らし、いかに出世するかしか考えていない、と。
研究者たちが確信するところでは、チャーツキーのモデルは、ピョートル・チャアダーエフである。彼は1812年の祖国戦争、その後のナポレオン戦争で各地を転戦している。その後、作家となり、ある秘密結社(フリーメイソンロッジの一つ)に一時属していた。欧州各地で遊学し、哲学を学んだ。帰国後はモスクワに住んだ。1829年に「哲学書簡」を書き、そのなかでロシアをこっぴどく批判した。すなわち、ロシアは西洋にも東洋にも属さず、その文化は模倣の産物である。ロシアは歴史の外にあって、いわば永遠に停止していると。
『知恵の悲しみ』は、ある程度チャアダーエフの運命を予告したものとなった。チャーツキーの言葉はあまりに時流を抜いていたので、多くの人には戯言と思われ、彼は狂人だとの噂が流れる。1836年、帝国政府はまさに同じ理由により、 チャアダーエフを狂人と宣言した。
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