「見込みがないな…」。1950年代後半に、A.A.ミルンの『ウィニー・ザ・プー』をロシア語に翻訳する計画について聞くと、ソ連の児童文学の第一人者だったコルネイ・チュコフスキーは友人のボリス・ザホデールにこう言ったのだった。チュコフスキーの見解は大間違いだった。ザホデールの翻訳は、あるいは「改作」は彼の希望通りに大成功した。
ザホデールは子供たちに「太陽と穏やかさと愛情に満ちている雰囲気」を与えたかった。
Lev Sherstennikov/Russian Look/Legion Media/Sputnik彼は、この有名なキャラクターのロシア(ソ連)版を制作しようとした。『ヴィニー・プーフ』(ザホデールがプーさんにつけたロシア名だ)は、数話が描かれるとソ連で大人気となった。西側でも、ソ連版はディズニーの原作よりも魅力的だと認められることもあるほどだ。
ソ連では、「朝に訪ねてくる人は賢い」とか「金曜日まで僕は断然暇だ」とか「フクロウ博士、ドアを開けて!」といった、ザホデールのプーフが口にする言葉は誰もが知っていた。ヴィニー・プーフは、多くのアネクドートにも登場するヒーローになった。
元祖『ウィニー・ザ・プー』はとても魅力的なキャラクターだが、ザホデールは何とかしてもっと魅力的にしようとした。ボリス・ザホデールがやったことは、文字通りにミランの原作を翻訳するのではなく、それを「改作」したことだ。ロシアの『ヴィニー・プーフ』の書籍には「B.ザホデールによる改作」と書かれている。
彼は『ウィニー・ザ・プー』へのこうしたアプローチの仕方について次のように説明している。「翻訳不可能なものを翻訳する方法はただひとつ――新たに書くことだ。作者が元の言語で書いたやり方で、今度はロシア語で書くことだ。私は、この本の魅力、その雰囲気を再現したいと切に願った。我が国の子供達が心底必要としているのは、いくつかおもちゃがあって、豪華なものは何もないが、太陽と穏やかさと愛情に満ちている、そんな普通の子供部屋の雰囲気だと思うんだ…」。
ザホデールは『メリー・ポピンズ』の物語もソ連の読者用に「改作」した。
Leonid Kvinikhidze撮影/映画撮影スタジオ「モスフィルム」/1983年彼は『メリー・ポピンズ』の物語をソ連の読者用に「改作」した人物でもあった。作者のパメラ・トラバーズは、彼のやり方には感心していなかったらしい(ザホテールはいくつかの章をカットしている)。しかしソ連では、人々はこの作品を賞賛したばかりか、1980年代初めには、この思い出深いサウンドトラックつきで映画がリリースされたのだ。
ザホデールは『ピーター・パン』の戯曲を翻訳し、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の新訳も手掛け、それに対して国際児童図書評議会の名誉賞を受賞している。
ソ連の人々は1983年に公開された『メリー・ポピンズ』の映画も大好きだった。
Leonid Kvinikhidze撮影/映画撮影スタジオ「モスフィルム」/1983年子供向けの詩や物語で目覚しい人気を博したこの作家は、その人生に幾度かつらい経験をしている。彼は二回、志願兵として戦争に行った。一度目は、1940年のソ連・フィンランド戦争で、二度目はヒットラーがソ連を攻撃した1941年だ。彼は1946年になってようやく動員解除となった。
その後の数年間は執筆したものを出版するのが非常に困難だった。それで、外国語を知っていた彼は、『外国文学』誌を出している出版局の翻訳者として働き始めた。この仕事では収入が足りなかったため、彼は鑑賞魚の交配を始めた。モスクワの共同アパートの6平米の部屋には24個の水槽があったそうだ。彼はいくつかの珍種の魚の稚魚を初めて孵化させたとも言われている。彼は後に「私が魚に餌をあげ、魚が私に餌を与えてくれるんだ」と冗談を言っている。
ポスト・スターリン期の「雪どけ」の時代である1950年代半ばには、すべてが一変した。出版人たちはザホデールの詩を好んだし、ソ連の読者たちも同様だった。『ヴィニー・プーフ』が成功すると、ザホデールは ソ連の児童文学の作家としてもっとも高い評価を受ける人々の仲間入りを果たした。
ザホデールは大人向けの詩も執筆したし、ゲーテの翻訳もしたが、これらの作品は彼の人生の終わり近くになってようやく出版された。
Kisavinov撮影彼は大人向けの詩も執筆したし、ゲーテの翻訳もしたが、これらの作品は彼の人生の終わり近くになってようやく出版された。ザホデールは2000年に亡くなった。彼の墓石は開いた本をかたどっている。そのページには、「ヴィニー・プーフとピタチョーク(ロシア版ピグレット)は、人々が言うように、永遠へと去っていく」と記されている。
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