アレクサンドル・キスロフ
イーゴリ・ポノソフは、アーティスト、社会活動家、キュレーター、アーバンアートの研究家。このほど、『ロシア・アーバンアート:歴史と衝突』という本を英文で上梓した。
この本の中でポノソフは、ロシアの歴史的背景を探ることで、この国におけるストリートアートの源泉と力を探った。その背景は、20世紀初めのアヴァンギャルドから、21世紀のノン・コンフォルミスト(非協調主義者)やアクショニスト、パフォーマンスアーティストまで及んでいる。
ロシア・ビヨンドは、この本から一部を抜粋してご紹介する。
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20世紀初頭、ロシア・アヴァンギャルドは、学問的な停滞、ブルジョワ芸術、そして美術の「博物館化」に抗して、都市と芸術を結びつける必要性を初めて宣言した。彼らのマニフェストと指針には、彼らの見解が反映している。すなわち、「ブルジョワ芸術」を槍玉に挙げ、彼らの美術のオブジェを都市の公共空間に移して、そこから派生するコンテクストのなかに位置づけていく。これが彼らの主張だ。
「なぜ我々は自分自身を描くか」と題されたマニフェスト
Archive photoアーティストよ、街に出よう!という最初の呼びかけは、1912年にイリヤ・ズダネヴィチ(イリヤズド)によってなされた。彼は、現代の既存の美術は無価値であると宣言した。そして、アーティストは民衆にもっと近いところで制作すべきで、例えば、屋外のポスターや看板を作るべしと説いた。
アートを日常生活に取り入れる試みは、もっと控えめな形でではあるが、未来派によっても行われていた。その方法は、エパタージュ、すなわち常軌を逸したふるまいで、一般に受け入れられてる社会的・文化的規範を破ること。
1913年、イリヤ・ズダネヴィチとミハイル・ラリオノフ(1881~1964)は、「なぜ我々は自分自身を描くか」と題されたマニフェストを出し、明るい色で自画像を描く意図を発表した。彼らはこの行動を「侵略の始まり」と名づけた。
アンドレイ・シェムシュリン、ダヴィド・ブルリュク、ウラジーミル・マヤコフスキー(左から右)
Anna Akhmatova State museum in Fountain House1914年、カジミール・マレーヴィチは、アレクセイ・モルグノフ(1884~1935)とイワン・クリュン(1873~1943)とともに、パフォーマンスを組織した。いわゆる「未来派のデモンストレーション」だ。芸術家たちは、モスクワ中心部のクズネツキー・モスト(鍛冶橋)で、赤い木製のスプーンを上着のボタン穴に入れてぶらぶら歩いた。それによって民衆との近さをアピールしたわけだ。
これらの美術家の観点では、木製スプーンは、エリート主義を拒否するシンボルで、美術家と民衆の「和解」の象徴だった。革命前夜のロシアにあっては、こうしたパフォーマンスはすぐさまメディアのセンセーションとなった。
1916年から1918年にかけての10月革命前夜には、「落書き(グラフィティ)と文学」のテーマに関して、未来派のなかで議論が行われ、この種のアートについての見直しがなされた。
ミハイル・マチューシン(1861~1934)、ダヴィド・ブルリュク(1882~1967)、カジミール・マレーヴィチ、アレクセイ・クルチョーヌイフ(1886~1968)、イリヤ・ズダネヴィチ、ワシリー・カメンスキー(1884~1961)などが、積極的にこれらの議論に加わった。マレーヴィチと未来派による講演「落書きと文学」は、大いなる論争を呼び起こした。
このイベントのスキャンダラスな面は、壁に描いた「わいせつな」落書きや文章を強調したことだ。当時、これらは、侮辱や罵言など何か猥雑なものを連想させたから。
未来派は、エリート主義から民衆への道を創造し、既存の「高尚な」美術の規則を破壊しようとしたのだった。
街に出ようと人々に促す、こうしたキャンペーンは、詩人ウラジーミル・マヤコフスキー(1893~1930)の何篇かの詩にもたどることができる。彼はこれらの議論にも積極的に参加していた。
アレクサンドル・オスメルキン。10月革命前1周年に捧ぐモスクワのジミン・オペラのために作られたデザイン。1918年
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年「侵略」芸術の最も重要なビジョンは、1918年にロシア未来派がつくった指針に示される。その未来派のなかには、マヤコフスキー、ダヴィド・ブルリュク、ワシリー・カメンスキーらが含まれていた。
指針の第1号は、「芸術の民主化について」で、これによりアーティストたちは、「塗料を手に取り、熟練のブラシで、街のありとあらゆる部分をくまなく塗りたくり、鉄道駅も、そしてつい今しがたまで走っていた車両もかたはしから塗りつぶす」べく立ち上がった。
左:ニコライ・コッリ。建築構成「赤いくさび」のスケッチ。右:モスクワの革命広場での「赤いくさび」、1918年。
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年だから、この指針には、20世紀初めの芸術革命の創造への呼びかけがはっきり含まれている。
「今後は、市民たちが、街を歩みつつ、偉大な現代人の強靭な思想を絶えず楽しみ、今日の、花盛りの華やかさのような言うに言われぬ喜びを観照し、世界中の優れた作曲家のメロディーにも、偶然の騒音やノイズにも耳を傾けることができるようになるだろう」
「街を誰もが芸術を祝う場所にしよう」。こういったキャッチフレーズはすべて、1917年10月の事件、そしてそれに続く、帝政ロシアを大変革する時代と、非常に調和していた。
既存の制度を拒否するうえで豊かな条件がそろった状況にあって、ロシア未来派は疑いなく、社会主義の新生ロシアにおいて、現代芸術のトーンを設定した。その際に彼らは、法的平等とエリート主義の排除に主に依拠した。
ソ連の祝いのための飾り。
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年様々な芸術的傾向、流派による公共空間利用の最初の試みは、10月革命の記念日の祝祭と大いに関連していた。革命1周年の1918年以来、ペトログラード(1924年以降はレニングラード。現サンクトペテルブルク)とモスクワは、祝祭的雰囲気に満たされていた。
ソ連の祝いのための飾り。
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年公式レベルでは、1918年4月、教育人民委員部(教育省に相当)が、指令「共和国の記念碑について」を定めた。その内容は、
・ロシア帝国のモニュメントを解体するだけでなく、新しいものを建立する。
・ 毎年5月1日のメーデーの祝典に際し、都市を芸術的に装飾するために、アーティストを動員する。
ソ連の祝いのための飾り。
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年ソ連初代教育人民委員(教育大臣)アナトリー・ルナチャルスキー(1875~1933)は、自分のノートのなかで未来派を擁護し、ペトログラードにおけるメーデーの最初の祝祭を賞賛している。
「それだけが、つまり、全体の形の尖鋭さと力強さ、そして鮮やかな色彩だけが、キュービズムと未来派から残っていた。それらは、屋外の絵画のデザインには必須なものだった――何十万人もの大観衆の視覚に訴えるために」
ソ連の祝いのための飾り。
イリナ・ビビコヴァ、N. レフチェンコ/「イスクストヴォ(芸術)」雑誌、1984年当初は、革命の祝典には、軍の行進や戦争の模倣、戦利品、人民の敵(ブルジョアジー、宗教、革命の「裏切り者」等に代表される)などが登場していた。
初期の革命の祝典、つまり1920年代半ばまでのそれは、プロのアーティストよりも、アマチュアや民衆のパフォーマンスに依拠していた。
ヴィーツェプスクの白い兵舎を飾るメレーヴィチと芸術学校の学生たち。
Getty Images革命1周年の1918年においては、こうしたプロと民間のバランスは次の事実を反映していた。すなわち、5月1日のメーデーは、単に世界的な現代アートのショーケースであるだけではない。また、当時の広報担当は「第1回フォーク・エキシビジョン」だと書いたが、それだけでもない。それが重要だったのは、民衆が芸術そのものの創造に加わったことだ。
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