フョードル・シェフテリは、20世紀初頭のモスクワのアール・ヌーヴォーシーンでもっとも輝かしいスタであり、アントニ・ガウディの作品に非常に大きな関心を寄せていることを自認していた。二人の建築家は互いに良く通じていて、ときには会って着想を交換しあったりもしていた。ガウディは、20歳近く年上で、疑いようもなくシェフテリに影響を与えている。では、世界中から訪れる人たちを驚嘆させる「ロシアのガウディ」のもっとも美しい建築物はどこで見られるのだろうか?
これはモスクワでもっともユニークな家のひとつだ。もともと、銀行家のS.P.リャブシンスキーの注文で建設されたこの家は、皮肉にも、ソヴィエトの作家マクシム・ゴーリキーの終の棲家となった。
波のような階段は、この家のインテリアの主要な特徴となっており、水の中を思わせるこのテーマは、壁や天井の装飾、窓、ドア、ドアノブ、そしてステンドグラスの窓の様式にまで続いている。
この階段は、バルセロナにあるガウディの「カサ・バトリョ」の階段を思わせると言う訪問者たちもいる。
「カサ・バトリョ」の階段
Łukasz Dzierżanowski今日、ロシア外務省のレセプションハウスとなっているこの大邸宅は、シェフテリが設計した最初の建築物のひとつだ。ロシアの億万長者で、この家を発注したサーヴァ・モロゾフ(ケンブリッジ大学卒)は、この邸宅を英国のネオゴシック様式で建てることを望んだ。
その要求以外は、シェフテリが自身の望むように自由にこの家を設計し、ロシアの画家ミハイル・ヴルーベリと協力している。彼らは共に、内装の細かいところまですべてを考案し、類を見ない豪華な雰囲気を創出したのだった。
いちばん驚くべきことは、シェフテリが、建築についての教育を何も受けていないのに、この邸宅を設計・建築したということだ。彼は、病気の母親の世話をするために、絵画・彫刻・建築学校を辞めなければならなかった。彼はその後、いくつかの建築ワークショップや挿絵入りの本、劇場の装飾も手がけていた。だから、モロゾフが彼にこの設計の仕事を依頼したことは、大きな契機となったのだった。その頃までには、シェフテリはすでに、キルジャーチ川岸にモロゾフのダーチャ(別荘)を建設していた。シェフテリは、35歳のときにようやく土木工学の学位を取得している。
ヤロスラフ駅は、モスクワと白海や北部地方をつないでいたため、シェフテリはこの駅のデザインのために、新しいロシア的な様式を選んだ。
この建物では、複合的な建築ソリューションがシンプルなデザインと組み合わされており、その結果、鉄道駅ではなくロシアのおとぎ話の宮殿のように見える。
窓や緑色のモザイクのフリーズ、花の装飾もまた、シェフテリのアールヌーヴォー様式への愛着を示している。この建物の中にある動物のモチーフがついた浅浮彫は必ずチェックしてみてほしい。
熱心な演劇愛好家だったシェフテリは、他の設計の仕事を延期してまで、モスクワ芸術座の古い建物の再建に取り組んでいる。
彼は、家具や配色、さらには照明の方向なども含め、特別な世界を創出するためにありとあらゆるデザインを自分で手掛けたのである。
シェフテリは、この劇場の有名なオリーブの緞帳の創り手でもある。それは、波のモチーフと、波の上を飛ぶ一羽のカモメの姿を描いた。これは、モスクワ芸術座の今も変わらぬシンボルとなっている。
ロシアでもっとも独創的な印刷所のひとつであるレヴェンソンの家は、ゴシック様式とアールヌーヴォー様式が融和している建物だ。
この建物の塔には、植物モチーフのついたアールヌーヴォー様式を強調するアザミのスタッコ飾りが施されている。邸宅の壮大な階段とガラス張りの扉もまた、この様式の優雅なフォルムやラインを描き出している。
この出版所は、1917年までこの建物内にあった。その後、ソヴィエト政府によって国有化され、国立印刷所となった。
1917年の革命後、シェフテリは新しい生活に順応しようとしたが、意義のある設計はほとんど生まれることはなかった。彼の邸宅は1918年に国有化されたため、その後は、家族と共にアパートを借りなければならなかった。ロシアの億万長者たちのために大邸宅を建てたこの天才建築家は、自分の家を所有することなく貧困の内に亡くなったのである。
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