ロシアの歴史博物館と屋敷博物館:なぜこんなに多いのか?

カルチャー
ゲオルギー・マナエフ
 ロシア各地にたくさんある歴史博物館と屋敷博物館は、いつどんな形で生まれ、どんな変遷をたどって来たのか、とくに面白い博物館はどうやって見つけるかなど関連情報をまとめました。

 これらは、国に雇われたむっつりしたバーブシュカ(おばあさん)たちが守る、単なる廃屋ではない。地元の歴史博物館は、ロシア、ソ連、連邦崩壊後の歴史を伝える聖域であり、他にはない展示品を見ることができる。それらは、ロシアの主要なミュージアムにとっては重要でないかもしれないが、美的価値があり、ノスタルジーを呼び起こす。

 村のはずれの近くにこんな家がある。古くてガタが来ているものもあれば、美しく修復された家もあるが、いずれも似たような展示品を有している。爛々たる目玉をはめ込んだクマのはく製。夏毛と冬毛の2種類のウサギのはく製。民間治療の薬剤みたいに見えるキツネ。乾燥した地元のハーブと小枝…。

  薄暗い展示室には、色あせたポスターが貼ってあり、その土地の歴史が長々と書いてあって、労働者階級の闘争を大いに強調している。地元の有名人の肖像画、写真もちらほらある。そのほとんどが1950年以前に生まれた人たちだ。地元の平凡な詩人の作品からの引用も見られる。

 これらすべてを運営しているのは、でっぷり太った眼鏡をかけた管理者と、薄汚れた雑巾を持った門番の女性だ。彼らが地元の歴史博物館を管理、運営している。

 そう、この手の歴史博物館は、ロシアのほぼすべての中ぐらいの規模の街で見つけることができる。ロシアには計800以上の歴史博物館があり、作家、探検家、科学者、革命家の生涯を記念した130以上の「屋敷(あるいはアパート)博物館」もある。

 しかし屋敷博物館には、その有名人の家具や持ち物がないこともしばしばだ。そういう場合は、代わりに「時代の雰囲気を再現する」ことを試みる。たぶん最も重要なことは、これらの博物館が、文化関連イベントが稀な町や村で、文化スポットになっていることだろう。

やはりピョートル大帝から始まった

 ロシアにおける多くの物事がそうであるように、これもピョートル大帝から始まった。骨や武器をはじめとする古い珍しいものを元老院に差し出し、その報酬を受け取るようにと、皇帝は命じた。これは、「クンストカメラ(人文学博物館)」の展示品を補充するために行われたのだった。クンストカメラは、ロシアの最初の博物館で、ピョートルのお気に入りだった。

 18世紀後半になると、ロシア科学アカデミーは、帝国の遠隔地で地誌的調査を始め、地方行政府に対し、「森林、河川、湖沼、鉱物、見本市、工場など」の情報を首都に送るように指示した。こうして1782年に、イルクーツクでロシア初の地元歴史博物館が開館した。

 しかし19世紀半ばまでは、地元の歴史、地誌の意義を理解していた者はわずかだった。その後、ニコライ1世(治世18251855年)は、すべての地方当局に対し、地方新聞の発行を義務づけた。これがきっかけになり、地元のアマチュアの歴史家は、さまざまなデータ、遺物、記念品などを集め、その発見に関する記事を発表するようになった。一方、地元の教会も遺物や記念物を集め、保管した。とはいえ、最も重要な宝物は、貴族の屋敷にあったが。

革命後、あらゆる宝物が国有化

 1917年のロシア革命の後、教会は閉鎖され、豪華な屋敷や宮殿は国有化された。貴族の宝物のなかで内戦の混乱で破壊されなかったものは、国有財産になった。地元の博物館には、貴族の屋敷、教会、修道院から奪った品々が詰まっていた。

 しかし、ソビエト政権の当局者は、博物館を管理・運営するノウハウを持っていなかった。そこで彼らは、以前の専門家、つまり帝政時代に教育を受け、この仕事の技能を有する人々に目をつける。その結果、貴族の一部は、もともと自分の屋敷の一部だった博物館で、その管理者になった。

 だが、スターリン時代の1930年代初めには、これらの「元貴族」の多くは告発、弾圧された。以来、地元博物館の中身も変わり、過去を保存するのではなく、それを非難、糾弾し、共産主義の未来を讃えよう、ということになった。

 つまり展示品は、ソ連国民がいかに共産主義に向かって進んでいたかを伝え始める。そして地誌は、「我が国の生産力と天然資源の研究」を開始したのである。

 1930年代、ソ連の建国者レーニンの妻、ナジェージダ・クルプスカヤは、教育人民委員会議副議長(教育省次官に相当)を務めていたが、すべての革命前の文学を廃棄しようと呼びかけた。ロシアの歴史にとって幸運なことに、この狂気のような呼びかけは、ほとんど無視された。

「雪解け」とそれ以降

 戦後世代は、地元の歴史に新たな関心を示し、都市部のグループは郊外、遠隔地に旅行して、放棄された教会や邸宅、荘園などを探索した。その一部は研究者だったが、他は宝物を漁っていたトレジャーハンターだった。そのため、残念なことに、多くの中世のイコン、図書、家具などがこの間に、個人収集家および外国のコレクターに流出してしまった。

 しかしロシアの歴史は、地元の博物館にゆっくりと戻っていった――日々の仕事をしている、民族衣装を着た村人の蝋人形の形で。多くの博物館では、蝋人形の顔が実際の村人をモデルにしていたので、博物館は目立たぬ形でロシアの農民の記念ともなった。

 ペレストロイカの後、ソ連の日常生活も地元の歴史博物館の対象となり、ソ連製の台所用品、昔の衣服、赤旗、ピオネールの制服も展示品に入った。そのため、各地の歴史博物館や屋敷博物館では、ソビエト・スタイルの愛好家は、本当の「宝物」を見つけることができる。

 こういった各地の博物館のなかで最も人気があるのは、19世紀ロシアの有名作家に関するものだ。ロシア・ビヨンドは、リリア・チーホノワさんと連絡を取った。彼女は、博物館「タルハヌイの元学芸員。ここで詩人ミハイル・レールモントフは、祖母エリザヴェータ・アルセーニエワに養育され、幼年時代を過ごした。今日、この地の伝統、慣習は、この邸宅周辺のガイドツアーに組み込まれる形で再現されている。

 「タルハヌイの結婚式の伝統は、地元民の記録された回想にもとづいて再現された。当地の結婚式は、地元の歌や伝統的な婚礼用の装飾品などが特徴。最近では、若いカップルたちがこの独特のスタイルで結婚するために、タルハヌイを訪れる」。チーホノワさんはこう語る。

 こうした屋敷博物館は、その家の伝統が生き続ける場所でもある。タルハヌイでは、そういう伝統の一つが慎重に保存されてきた。

 「レールモントフの祖母エリザヴェータ・アルセニエワは、彼女の庭のちょっと離れたところにあるロトンダ(丸天井をもつ円形の建物)でお茶を飲むのが大好きだった。今日でも、レールモントフやアルセーニエワの誕生日などの大事な機会には、博物館の職員が、そのロトンダで客たちに紅茶をふるまう」。チーホノフさんはこう述べる。このささやかな伝統は、博物館だけでなく屋敷の方でも生き続けている、と彼女は付け加えた。

 どの街の歴史博物館が面白いかは簡単に分かる。ふつうは、最も古い町や都市のそれだ。有名人の屋敷博物館となると選び出すのがもっと難しくなるが、すでに読者の皆さんのために選別済みである。

 アールヌーボー様式の傑作「リャブシンスキー邸」のビジュアルガイドもある。モスクワにある、この邸宅で、作家マクシム・ゴーリキーが晩年を過ごした。

 詩人アレクサンドル・プーシキンのサンクトペテルブルクのアパートや「バレエ・リュス」を立ち上げ全欧に衝撃を与えた大興行師セルゲイ・ディアギレフの家も面白いペルミ市)。

 詩人アンナ・アフマートヴァのサンクトペテルブルクのアパートも、戦後のレニングラードの日常生活をかいま見せてくれる。

 作家ミハイル・ブルガーコフが住んでいた、モスクワのパトリアルシェ池付近のアパートは、彼の名作『巨匠とマルガリータ』に描かれている。悪魔のパーティーが行われるあの「不吉なアパート」だ(*このアパートからは、次々と住民が姿を消し行方不明となる。これはスターリン時代の大量の逮捕、粛清を暗示している――編集部注)。