ソ連のデザイナー、スラーヴァ・ザイツェフはいかにして「赤いディオール」になったか

スラーヴァ・ザイツェフのオートクチュールのショー

スラーヴァ・ザイツェフのオートクチュールのショー

Getty Images
 3月2日、ファッションデザイナー、スラーヴァ・ザイツェフ氏が80歳の誕生日を迎えた。西側でもその名を知られた唯一のロシア人デザイナーにまつわる興味深いエピソードをご紹介しよう。

作業服や制服の裁縫からキャリアをスタート

スラーヴァ・ザイツェフ、1966年

 スラーヴァ・ザイツェフは、モスクワテキスタイル大学を卒業した1962年、モスクワや周辺地域の婦人服を製造していたモスクワ州の縫製工場に就職した。最初のコレクションは当局に否定的に受け止められた。彼は、村の女性労働者のための味気のない作業服の代わりに、カラフルな中綿入りジャケットとワーレンキ、パヴロポサード風の柄の入ったスカートをデザインしたのである。駆け出しのデザイナーだったザイツェフのコレクションはソ連市民に悪影響を及ぼすとして批判され、美術委員会での審査から先へは進まなかった。そこでザイツェフは野暮ったい作業服にただグワッシュで色をつけただけのものを作った。しかし、フランスの雑誌「Paris Match」がこのコレクションについての記事を掲載した。その見出しは「彼はモスクワのファッションを暗示している」というものだった。

 

「鉄のカーテン」を超え、西側で有名に

マダム・カルヴェンとスラーヴァ・ザイツェフ

 ザイツェフに関する記事が掲載された数年後、ディオールのデザイナーであるマルク・ボアン、ギ・ラロッシュ、ピエール・カルダンといったデザイナーたちが、勇敢なロシア人と知り合おうとザイツェフを懸命に探した。彼らはザイツェフのデザインに深い感銘を受け、惜しみない賛辞を送った。ピエール・カルダンはザイツェフを「同業者の中でトップに立つ人物だ」と評し、フランスのメディアは彼を「赤いディオール」と呼んだ。以来、ザイツェフの名は西側でも知られるようになり、また彼のコレクションは今もパリやフィレンツェのファッションウィークで紹介されている。1989年、ザイツェフは「世界のデザイナーベスト5」の第1位に選ばれた。このランキングにはダナ・キャランやクロード・モンタナ、森英恵、ビブロスのデザイナーたちが入った。

 

1988年まではソ連から出ることはなかった

1988-1989年秋冬オートクチュールコレクション、パリ

 国外で高い人気を誇っていたザイツェフだったが、ペレストロイカ以前は西側で開かれる自身のコレクションのショーに出席することはできなかった。数十年の間にザイツェフが訪れることができたのはチェコスロヴァキアだけである。それは1968年、ソ連軍がプラハに侵攻した年であった。すべてが変わったのは1980年代に入ってから。1987年にザイツェフはニューヨークでコレクション「ルーシの洗礼から1000年」を発表、1988年にはマダム・カルヴェンの招きによりコレクション「パリのロシアンシーズン」を発表した。

 

世界の美術館に収蔵されるザイツェフの作品

スラーヴァ・ザイツェフによる「ファッションの半世紀」展示館

 グッゲンハイム美術館でコレクションを披露したというデザイナーはそうたくさんはいない。ヴャチェスラフ・ザイツェフのデザインした衣装は美術館の展示品となった。また彼の作品はメトロポリタン美術館、ニューヨーク州立ファッション工科大学のコレクションに含まれている。

 

舞台のための衣装作り

「狂気の一日、あるいはフィガロの結婚」、モスクワの風刺劇場

 ザイツェフはプレタポルテやオートクチュールのコレクションを作っているだけではなく、舞台の衣装デザインも手がけている。もっとも有名な作品はモスクワの風刺劇場で上演されている「狂気の一日、あるいはフィガロの結婚」の衣装である。またマールィ劇場、モスクワ芸術座、ソヴレメンニク劇場の衣装も制作している。

 

自身の名を冠したファッションハウスを持つ唯一のデザイナー

 1982年、アトリエ「モスシヴェヤ」で働いていたザイツェフに、モスクワのプロスペクト・ミーラ(平和大通り)でファッションハウスを創設しないかという提案が舞い込んだ。そしてそれからほどなくして、スラーヴァ・ザイツェフスタジオ(ザイツェフ自身はこの名称が気に入っている)は、当時ほとんどなかった真のブランドとなった。何より、自身の名前を洋服のタグに入れることを許されたソ連のデザイナーなど他にいなかった。このファッションハウスは今も同じ場所にある。

 

警察官の制服やオリンピックのロシア代表チームのユニフォームも

ソ連チーム、サラエヴォ冬季オリンピック

 一般的な洋服以外に、ザイツェフは警察官の制服やスポーツ選手のユニフォームもデザインしてきた。たとえば、1980年のモスクワオリンピックのソ連代表選手団の衣装はザイツェフの手によるものだ。そしてその4年後の1984年、ソ連チームがサラエヴォ冬季オリンピックで身につけたのもザイツェフが新たにデザインしたユニフォームだった。限られた予算の中で、ザイツェフは毛皮の代わりに羊毛を使った。開会式、ソ連の選手たちはスタイリッシュなグレーのなめし革のコートと毛皮の帽子で登場した。女子選手のユニフォームには色鮮やかなパヴロポサードのプラトーク(スカーフ)を添えた。ちなみにザイツェフはこのパヴロポサードのプラトークが大のお気に入りで、今でもコレクションによく取り入れている。

 

政治家の夫人たちの洋服

ウラジーミル・プーチン大統領とリュドミラ・プーチナ(中央)

 ソ連時代、ザイツェフのデザインによる洋服はソ連政府の高官たちにも愛された。ザイツェフの洋服を好んだのは当時の外相エドゥアルド・シェワルナゼ夫人や、レオニード・ブレジネフ書記長一家、最初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワなどである。もちろん今も、ザイツェフファッションハウスの洋服は広く知られ、愛されている。ウラジーミル・プーチン大統領が2003年にイギリスを公式訪問した際に、リュドミラ・プーチナが選んだのもザイツェフのドレスであった。夫人はエリザベス2世との会見でもやはりザイツェフデザインの洋服を身にまとった。

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