麻痺を患いながら19世紀のロシアの生活を象徴的に描き出した芸術家

『商人の妻』

『商人の妻』

 もし血色が良くずんぐりした女性、民衆の祭り、色彩の繚乱を見かけたら、ボリス・クストーディエフの作品を目にしている可能性がある。クストーディエフの生誕140周年の節目に、彼の最も興味深い作品群を見てみよう。

自画像、1912年

 ボリス・クストーディエフのキャリアは肖像画家として始まった。彼はサンクトペテルブルグ芸術アカデミーでかの有名な芸術家イリヤ・レーピンとともに学び、レーピンの記念碑的な絵画『創立100周年記念日1901年5月7日の国家評議会の記念祝典』でレーピンを手伝ったこともあった。

『マースレニツァ』、1916年

 しかし若きクストーディエフは突然風俗画家に転向し、ロシアの真の特質とイメージとを探し求めてヴォルガ川沿岸の街コストロマに移り住んだ。そこで彼はのちに自身の芸術の主要なテーマとなるものを見出した。商人の生活、色鮮やかな服装をした女性、民衆の生活だ。

 

『革命のジュペル』、1906年

 ある期間彼は政治風刺画の雑誌『ジュペル』(悩みの種)で働いてさえいた。1906年の絵画『革命のジュペル』には、家々や死体の山を踏みつけながら街を横切る巨大な赤い骸骨が描かれている。このイメージはロシア最初の革命に対する彼の姿勢を反映している。

『商人の妻』、1918年

 クストーディエフは批評家から絶賛を受け、彼の仕事は増えた。ある時彼はヴァレンティン・セロフより高い評価を受け、モスクワ絵画彫刻建築学校での肖像画教師の職を勧められた。しかし彼は自分の画業に支障が出ることを嫌い、この申し出を断った。

『市場』、1910年

 レーリヒやバクスト、ベヌアー、レヴィタン、その他多くの芸術家とともに、クストーディエフはミール・イスクーストヴァ(芸術の世界)に参加していた。これはセルゲイ・ディアギレフによるバレー・リュスの創設で有名な芸術運動だ。これらの芸術家は古代ロシアの文化に目を向け、インスピレーションを得ていた。

 

『皇帝の花嫁』の舞台面の画稿、1920年

 ミール・イスクーストヴァ以前は、どの劇場にも、公演ごとに標準的な舞台装飾と衣装があり、それらの変更は主題次第だった。クストーディエフは、ミール・イスクーストヴァ運動の仲間たちとともに、公演ごとに独特の舞台デザインを制作することを目指した。彼はリムスキー=コルサコフのオペラ『皇帝の花嫁』や『雪娘』といったモダニズムの演目や、アレクサンドル・オストロフスキーの演劇数作品のために舞台装飾と衣装デザインを創作した。

 

『ツァーリ ニコライ2世』、1915年

 クストーディエフ芸術の明るいジャンルは、ロシアの田舎の生活をおとぎ話のように描き出している。興味深いことに、このジャンルにおける彼の初めの試みがなされたのは、有名な歌手フョードル・シャリャピンや皇帝ニコライ2世、自画像などの肖像画を描いている頃だった。

  

『ヴォルガ川沿いの散策路』、1909年

 クストーディエフが古典文学に寄せた挿絵もまた重要である。彼は、ニコライ・ゴーゴリ、ミハイル・レールモントフ、レフ・トルストイ、ニコライ・レスコフらの物語の挿絵を描くため、線画や石版画を用いた。

 

『美人』、1915年

 1909年にこの芸術家は脊髄腫瘍を患い、数度にわたる手術も虚しく彼は余生を車椅子で過ごすことを余儀なくされた。それでも亡くなるまでの15年間、クストーディエフは絵を描き続けた。彼の最も色彩豊かで刺激的な作品群はこの期間に生み出されたものだ。

 

『ボリシェヴィキ』、1920年

 麻痺を患って外出しなかったクストーディエフは1917年の革命事件を直接目撃することはなかったが、1920年に有名な絵画『ボリシェヴィク』を制作した。これは革命に対する彼なりの反応と解釈であった。いずれにせよ、赤い旗を手に民衆を導く巨大なプロレタリア人の図像は野心的だ。誕生間もないソビエト政府がこれを自らのイデオロギーの肯定と捉えたが、一方で『ジュペル』の骸骨との強い類似性も看取できる。

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