カンディンスキーの7つの事実

AFP/East News
 12月16日は、ワシリー・カンディンスキーの生誕150年目にあたる。芸術家、理論家、非対象芸術の発明者の一人で、絵画に関する観念を完全に覆した人物である。

1.     法学部卒だった

 カンディンスキーは絵画に専念する前、「まじめな」職業についていた。両親の希望で、モスクワ大学法学部を卒業。キャリアを順調に構築していった。1893年に卒業した後は大学に残って教鞭をとり、3年後にタルトゥ大学(現在はエストニア)から法学の教授になることを提案された。この時30歳になっていたカンディンスキーは、絵画の道に進むことを最終決断した。

 

2.     音楽からインスピレーション

 カンディンスキーの意識の中で、絵画は音楽と密接に関連している。ボリショイ劇場で上演されたリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ローエングリン」からインスピレーションを受けたことが、法律のキャリアを選ばない理由の一つになった。自伝的著書「音階」には、このように書いている。「バイオリン、重厚なバス、そして何よりも管楽器が黄昏時のすべての力を私の意識の中で具現化した。私はすべての絵の具を頭の中で見た。色彩は私の目の前にあらわれた。私の目の前で、猛烈な、ほとんど狂気の線が描かれた」

 

3.     邸宅をテーマに

 カンディンスキーは新しい言語を模索する中で、さまざまなスタイルを垣間見た。1896年、モスクワで展示されたクロード・モネの「積みわら」に衝撃を受けた。カンディンスキーはミュンヘンにあるアントン・アズベの学校で学んだが、ここでは個別の筆づかいや純粋な色づかいに傾倒していった。当初はモダニズムやシンボリズムに近く、「クリノリンの貴婦人たち」(1909年、モスクワ・トレチャコフ美術館所蔵)などの、伝統的な邸宅の様子を描いていた。だがヨーロッパをまわった後の作品には、フォーヴィスムやナビ派の影響が見られるようになった。

ワシリー・カンディンスキー=AFP/East Newsワシリー・カンディンスキー=AFP/East News

4.     評論家は異常者扱い

 最初の抽象化に先立って、絵画だけでなく、木版画で育んだカンディンスキーのテーマには、簡略化と形状の破壊が見られるようになっていた。1910年に開催された「ミュンヘン新芸術家協会」の2回目の展覧会(パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、キース・ヴァン・ドンゲンを含むさまざまな国の芸術家が招かれた)で、カンディンスキーは「『コンポジションII』へのエチュード」(ニューヨーク・グッゲンハイム美術館所蔵)を披露。評論家はすぐさま、作品を狂気だ、「モルヒネやハシシでおかしくなった」などと酷評した。

 

5.     世界初の抽象画

 カンディンスキーの創作における最初の非対象作品(そして世界初の抽象画)は、「円と絵」(1911年、トビリシ・グルジア国立美術館所蔵)と考えられている。本人によれば、自然は創造性に刺激を与えるが、コピーすることに意味はない。感情的なトーンを与え、構図の構築を助けるのは、色である。形状は動きをつくる面と線の組み合わせ。

 

6.     色に息吹を与えた

 カンディンスキーの色彩は目的そのものであり、絵の題材とは無関係。絵の具のことを「活動物」と呼び、見る人の心に直接作用する特性を与えた。ゲーテの理論にもとづき、独自の相互関係を導きだした。黄色はフルートの音色をほうふつとさせ、地球を代表し、見る人に向かう動きを強調し、三角形に対応する。青色は空の平静、悲しみ、見る人からの動き、円、チェロの音色に対応する。赤色は内なる沸きおこり、正方形の形状。緑色は不同、無感情。

 

7.     ソ連の精神に合わず

 カンディンスキーは多くを生みだした。抽象言語ができ始めた時期の1909年から1914年までに、200枚の絵やスケッチを描いた。それらの多くは失われた。ソ連時代、地方の美術館に送られ、社会主義リアリズムの精神に反するとして保管スペースに隠され、ナチスドイツでは退廃芸術と認定された。