レオン・バクスト生誕150年

バレエ『火の鳥』(1910)のコスチューム=

バレエ『火の鳥』(1910)のコスチューム=

レオン・バクスト
 2月8日、レオン・バクストの生誕150年を迎える。ロシアNOWは、セルゲイ・ディアギレフが主宰した伝説の「バレエ・リュス」の主要な画家、デザイナーであった彼の生涯を振り返る。バクストは、演劇の舞台を永遠に変え、ココ・シャネルの栄光をすんでのところで奪うところまでいった。

 バクストは、ロシアのいわゆる「銀の時代」の洗練された挿絵画家であり、素晴らしい肖像画家であり、傑出した舞台美術家であり、1910~20年代のフランスおよびアメリカのモードに影響を及ぼした。1866年、グロドノ(現ベラルーシ)の正統的なユダヤ人家庭に生まれ、本名は、レイブ・ハイム・イズライレヴィチ・ローゼンベルクといった。響きがよく、どんな言葉でも簡単に表記、発音できるペンネーム「バクスト」が初めて現れたのは、その23年後。若き画家が、世界に自分を発信しようと思い立つ、最初の展覧会でのことだった。

洗練されたアール・ヌーボー風

 彼の受けた教育は、とくに系統立ったものではなかった。ペテルブルク帝室美術院の講義を、任意の選択で聴講し、パリに長く滞在して、私立のアカデミーで講義を聞いた。生活費を稼ぐため、児童用の本に挿絵を描き、皇帝ニコライ2世の甥たちにデッサンを教えた。

 彼の経歴で最初の重要な一歩は、『芸術世界』グループの同人となったこと。ここには“大通人”ディアギレフもいた。

 1898年、ディアギレフは、ペテルブルクで「ロシアとフィンランドの画家たちの展覧会」を開催。これが、『芸術世界』グループの最初の共同デビューとなった。

夕食 (1902)=レオン・バクスト

 同人たちは、アカデミズムを認めず、さりとて移動展派の“人民志向”も眼中になく、洗練された唯美主義を評価し、欧州のアール・ヌーボーと象徴主義に近かった(バクストの線画には、イギリスのオーブリー・ビアズリーの影響が見られる)。そして彼らは、総合芸術を鼓吹した。これは必然的に同人の多くを、劇場の舞台の創造へと導くことになった。

 『芸術世界』誌の表紙絵や挿絵は、バクストにその才能に相応しい名声をもたらした。当時、彼は、同人たち、つまり、ディアギレフ、アレクサンドル・ベノワとその妻アンナ・キンド、女流詩人ジナイーダ・ギッピウスなどの肖像画も描いている。それは単に彼らの容貌を写したものではなく、両世紀間の激動期の雰囲気そのものを伝えていた。

流行の寵児に

 20世紀初めにバクストは劇場での活動を始めた。彼の制作した衣装をまとって、伝説のバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤはさらに輝きを増し、アンナ・パヴロワはサン=サーンスの『白鳥』を舞い、イダ・ルビンシュタインは、名高いスキャンダラスな『サロメ』を踊った。その初版は、正教会によって禁止されたほどだ。

 1909年、ディアギレフはパリで、バレエ団の旗揚げ興行を行い、バクストは、その公演の枠内で、ミハイル・フォーキン振り付けの『クレオパトラ』の舞台美術を委ねられる。

セルゲイ・ディアギレフの肖像レオン・バクスト

 その最初の場面は、観衆を魅了し、悩殺した。4人の黒人奴隷が、刺繍で飾られた籠を運んでくる。その中から、12枚の覆いにくるまれた「ミイラ」を取り出すのだが、その一枚一枚が装飾芸術の傑作なのだ。黄金のワニを織り出した赤い布、ファラオの系図を描いた緑の布、そして最後の濃い青の布の下から、イダ・ルビンシュタインが半透明の衣装で現れ、驚天動地のダンスを踊る。

 その一年後、リムスキー=コルサコフの音楽による『シェヘラザード』は、完全にパリを征服した。

 「ディアギレフ、そして彼とともに活動したフォーキン、ニジンスキー、バクストらは、舞台の上演というものに対して新たなコンセプトを創り出した。それは、絵画、音楽、舞踏の真の総合であり、そこでは画家は、従来のように、単に背景を作るだけではなく、画家は、作曲家、振付師と同等の存在となった。いや、時には、その鮮やかさ、大胆さ、エキゾチックさのおかげで、舞台美術がメインになることもあった。これに続く、ロシアのアバンギャルド演劇はすべて、エクステルもゴンチャロワもムヒナも、バクストを拠りどころにした」。こう語るのは、プーシキン美術館の個人コレクション部長で、今年夏に開催されるバクスト回顧展のキュレーターを務めるナタリア・アフトノモワ氏だ。

演劇からファッションまで

 動きと裸体への関心、東洋的モチーフ、情熱と洗練されたエロティシズムが、ロシアのバレエ、「バレエ・リュス」の舞台における「新しい言葉」だった。そして、これらが舞踏会やカーニバルでの装いにも持ち込まれた。

 バクストは、スケッチを有名ファッション・デザイナー、ポール・ポワレに売り、また3年間にわたって、ファッションハウス「Paquin」の創設者、ジャンヌ・パキャンと協力。

 バクストは、ターバン、だぶだぶのズボン、色つきのカツラなども流行らせたが、最も奇抜なファッションは、ルイーザ・カザーティ侯爵夫人のためのものだった。彼女は、20世紀最初の30年間における欧州社交界の伝説的ボヘミアンであり、白いアルレッキーノや太陽女神、はたまた夜の女王の扮装で現れ、人々の度肝を抜いた。

 成功の波に乗ってバクストは(欧州のみならずアメリカでも)、自身のファッションハウスを開こうと計画していた。そこでは、ファッション以外に、装飾品、家具、壁紙、布などもデザインするつもりだったが、1924年、彼の突然の死が、夢の実現を阻んだ。

 たしかに、バレエ・リュスには、他の大芸術家たち(ドラン、マティス、ピカソなど)も協力したが、バクストの名こそが、このバレエ団の成功と結びついている。そして、この成功は、劇場の舞台をはるかに超えて広がったのだった。

 

* 画家レオン・バクストの誕生日については、例えば、大ソビエト百科事典では、1866年2月8日(ユリウス暦1月27日)、歴史事典では同年5月9日(ユリウス暦4月27日)となっており、生まれた月に複数の説があります。ロシアNOWでは、前者に従っておりますが、後者の可能性を否定するものではありません。

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる