ゲルギエフにインタビュー

Ruslan Shamukov/タス通信
 世界的な指揮者でマリインスキー劇場芸術監督を務めるワレリー・ゲルギエフ(62)が、クリミア問題、ミュンヘンへの愛着、プーチン大統領との親交、ルクセンブルク領事としての仕事などについて語った。

あなたの超過密日程を見ましたが

 私の生活の日程ですか?最近35年間はほとんど変わってません。ただ過密になる一方です。多くの時間を様々な国での公演で過ごしています。

 

立ち止まって振り返りたいという気持ちになりませんか?

 私はいくつかの楽団と仕事しています――レニングラード、ロンドン、ミュンヘン等々でね。大オーケストラを指揮し、指導してます。これは気持ちを切り替え、自分を見直すには最高の方法ですよ。

 

サンクトペテルブルクじゃなくてレニングラードとおっしゃったのは偶々ですか?

 この名は私の人生の一部になっているんです。 私はレニングラード音楽院で学びましたし、学生のときにレニングラード・フィルのコンサートに通ったし、やはりレニングラードのキーロフ劇場(現マリインスキー)で仕事に就きましたからね…。私の感じでは、レニングラードにはいつでもペテルブルクが残っていたし、現在のペテルブルクにはレニングラードの名残があります。それが良いか悪いかの判断は差し控えますが、その人の見方次第だと思います。

 1962年秋に、あの偉大なストラヴィンスキーがほぼ半世紀ぶりに故郷の街の土を踏みました。「レニングラードで特に気にいったものは?」という質問に対する彼の答えは、簡潔にして驚くべき広がりをもつものでした。彼は「サンクトペテルブルクです」と言ったのです!

 この都市には、その歴史のある時期を恥じねばならぬ理由などありません。今のマリインスキー劇場は、キーロフ劇場の後継者にして伝統の継承者とみなされていますが、それは正当なことです。ソ連時代、キーロフ・バレエ団は完成の同義語だったことを思い出すだけで十分でしょう。

 

フォーブス誌の試算では、2013年のあなたの総収入は、1650万ドル(約20億円)に達し、ロシアで最もリッチなミュージシャンだったと伝えています。

 誰かを追いこそうなどという目標は立てていません。確かにここ10年ほど、私の報酬はとくに西側では高額ですが、その数字は明らかに水増しされています。1600万ドルなんてとんでもない。

 まともな音楽家は誰一人として、ステージに出るときにギャラのことなんか考えていません。そんなことは絶対にありえません。我々は芸術に携わっているのですから、冷静な打算は…これはやっぱり別の“オペラ”の領分でしょう。

 あなたは、私の芸術人生のかなりの部分がセルゲイ・プロコフィエフとともにあったことをご存知ですか?この天才と我々は同時代に生きていたのです!私はまだ10歳の子供の頃に、彼の最も簡単なエチュードを覚えたのですが、本能的に、何か偉大なものに触れたぞ、という感じがしました――当時はそれをはっきり言い表すことはできませんでしたけど。

 その20年後、1978年に、私は初めてキーロフ劇場で指揮しましたが、それは彼のオペラ『戦争と平和』でした。以来、彼から離れたことはなく、ほとんどすべての作品を演奏しました。もう一昔前になりますが、1991年にはマリインスキー劇場でプロコフィエフ・フェスティバルを開催しました…。来年は、彼の生誕125年です。この記念すべき年が注目され、然るべく祝われてほしいものです。少なくとも私にできることは何でもやります。

 仮に将来、ゲルギエフはその人生において何一つ有益なことを成し遂げず、ぜんぶぶち壊しにしたが、プロコフィエフの不当にも忘れられた多くの作品を復活させた、と書かれたとしたら――私はそれに賛成するでしょうね。

 これこそが肝心なことです。なのに、あなたは金のことなどおっしゃるのだから…。

 

ペテルブルクでは、マリインスキー劇場はいつも特別会計ですが、市政府とはうまくやって来られたわけですね?

 この27年間は、市当局を請願で困らせないように努力してきました(*ゲルギエフは、1988年に35歳の若さでキーロフ劇場芸術監督に就任した――編集部注)。何と言っても、我々は国の文化施設ですからね。

 でも、よく覚えていますが、1993年に、当時のアナトリー・サプチャク市長が市の予算から「白夜祭」開催のために1000ルーブル割いてくれました。今じゃ、お笑い種の金額ですが、その時は、これがペテルブルク市長が我々を援助できるぎりぎりの線だったのです。彼には他の財源はありませんでした。90年代とはこんな時代だったんです!

 我々は10人ばかりのジャーナリストを招きました。2台ほどテレビカメラがありましたっけ。最初にサプチャク市長が開会の辞を述べ、次に私…。机には、何本かのシャンペンの瓶とキャンディーが乗ってました。市の金は、ご馳走には使いませんでしたから…。仲間の音楽家たちは、高いギャラなど当てにしないで、ペテルブルクの音楽祭への招待に応じてくれました。どっちにしてもそんなギャラは払えませんでしたけど。

 その20年後、「白夜の星」音楽祭がこれほど大規模なものになり、2000年代には世界の音楽祭トップ10入りするなどと、誰に想像できたでしょうか。音楽祭の草創期には、私が出演するように説得できた友人達しかやって来ませんでした。もっとも幸いなことにそういう人はたくさんいましたが。

 

確かにそうですね。ゲルマン・グレフ氏(国立銀行最大手ズベルバンク総裁)とアレクセイ・クドリン氏(元財務相)は、誰とでも親友になるわけじゃありませんから。

 ええ、二人との関係は大切にしています。ただ、考えてほしいのですが、我々の友情は90年代半ばから続いていて、当時は、この若きエコノミストがやがて国の政治エリートになるなどと敢えて予想する者は一人もいなかったのです。我々はサプチャクのおかげで知り合いました。彼は、自分の周りに才能ある際立った人物を集めることができましたから。

 ところで、私が初めてマリインスキーでサプチャクと会ったとき、その脇にウラジーミル・プーチンがいました。1992年初めのことでした。当時、フランスの投資家たちがやって来てまして、ノーヴァヤ・ゴランディア島(新オランダ島)や歴史的建造物を改修する話が持ち上がっており、マリインスキーもその対象になりそうでした。このプロジェクトは実現しませんでしたが、プーチンとは知り合えたわけです。

 1999年、彼は、首相になったときに、私のことを思い出してくれました。で、政府庁舎に呼ばれたのです。まだ首相に就任してひと月でしたね。私達は1時間半、話し込みました…。もちろん、だからといって、この指導者が国家救済について討議すべく選んだ少数の顔ぶれに私が入っている、などと言うつもりはありませんよ。そりゃ当然です!

 もうその頃、つまり90年代末には私は、世界の主要なステージで定期的に演奏し、世界の目ぼしい音楽祭で指揮してましたし、私的な場で、“この世の強者たち”と会ってました。1ヶ月の間に、ニューヨーク、パリ、東京、ベルリンで公演したこともありました。20年前にもう、私のコンサートには、ヘンリー・キッシンジャー、当時世界銀行総裁だったジェームズ・ウォルフェンソンなどが来てくれてました。

 また、フィリップス社のCor Boonstra会長との友情のおかげで、マリインスキーのオランダ、フランスそして――これは驚いていただいていいのですが――中国で公演を行うことができました。巨大な多国籍企業にはこのくらいの出費は些細なものでしょうが、その代わり、我々の北京公演には、当時の江沢民国家主席が思いがけず聴きに来てくれました。

 

プーチン大統領の話に戻りましょう。友情の代価はあまりにも高くついたと思いませんか――最近のミュンヘンでの激論一つをとっても?何によらずプーチンを擁護する人物と、300万ユーロ(約4億円)で契約する必要があるか、というので議論が沸騰しましたね。

 これが私が挑発を受けた最初のケースだと思いますか?もしアーティストが公に自分の意見、立場を説明しようとするや、たちまち敗北するのは必至です。私はそれをよく弁えています。私は議論は苦手じゃないし、どんなレベルでも、どんな聴衆相手でも、自分の立場を擁護する覚悟はありますけど、そんなことに時間と労力を費やす意味がありますか?私はないと思いますね。もっと為になることをやったほうがいいです。政治じゃなくて、偉大な作曲家についてなら、喜んで話しますよ。

 

でもドイツ人達の立場はあなたの気に障らなかったはずはありませんね。

 最近私は、ドイツのシュピーゲル誌から長いインタビューを受けました。バイエルンの州都(ミュンヘン)での、9月17日の仕事始めを控えていたときです。その時もまた政治がらみの問題で散々苦しめられましたよ。ついに私はこう言いました。「ゲルギエフはミュンヘンの脅威にはならないでしょう。あなた方は、難民と中東テロリストの問題のほうにより頭を痛めているはずです」とね。

 ついでに言うと、私はミュンヘン・フィルとはこれまでにも何度も仕事したことがあり、今回の契約締結も、クリミアの編入のずっと前になされています。これを西側では「クリミア併合」と呼んでいますがね。政治家達には、騒ぎを起こすためのきっかけが必要なんです。で、それを見つけたわけで、けっこうじゃありませんか。

 私は誰にも議論をふっかけたことはないのに、しきりに“打撃の応酬”に引き込み、私には畑違いの問題を論じさせようと強いるのです。これには疲れるし、苛立ちますよ。自分がよく知らず興味もないことを云々するのは好きではありません。ある時、やはりミュンヘンでですが、私の記者会見が妨害されたことがありました――全然関係のないことを聞かれてね。これは今風の言葉では「荒らし」というんですかね。二、三分で分かりやすく説明してあげました。私はこんなことのためにドイツにやって来たんじゃないとね。ドイツのジャーナリスト達はなぜか私の返答に不満足だったようですが…。

 

でも、何と言っても西側では、クリミアとウクライナの問題でプーチン大統領への支持を表明する公開書簡にあなたが署名したことを許してませんね。

 まず、私は何も署名しなかったということを申し上げたい。

 

え、どういうことです?

 それはこういうわけなんです。昨年3月に文化大臣のウラジーミル・メジンスキーが電話をかけてきて、「クリミアの事件をどう思いますか?」と聞くので、「人々を救わなければなりません」と答えたら、「プーチン大統領への手紙に署名されますか?」と言うので、「文面を送ってください。まず目を通さないとね」と言いました。それっきりです。何も送ってこなかったのに、その数時間後には、マスコミ報道で、私が最初の署名者にされていたことを知ったのです…。

 私の考えでは、こういう連署の公開書簡は、まったく何の役にも立ちません。ソ連時代の残滓ですね。プーチンには明晰で透徹した論理が、クリミア、ウクライナのみならず、他の問題にもあります。大統領は、自分でちゃんと説明し、納得させることができますよ。ロシアは、こういう強力なリーダーがいて、幸運です。彼は、文化人の助けなんか必要としません。いわんや、こんな公開書簡という形ではね…。

 私見では、この種の手紙は、全体の立場を強めるどころか、逆に、我々一人ひとりの足場を掘り崩すのが落ちです。手紙なんて、余計なお節介ですよ!私は市民ですが、“署名屋”じゃありません。我々は、必要だと思うことは自分で発言する覚悟があります――くどいようですが、どんな相手に対しても。私はかつて、アメリカ議会図書館で、上院議員、軍人、専門家の前で演説したことがあります…。そのなかの多くの人とは個人的に知り合いでした。カナダでも南米でも日本でも同じことです…。

 

あなたは、名プリマのマイヤ・プリセツカヤとその夫君の作曲家ロディオン・シチェドリンと、長きにわたる友情で結ばれていました。亡くなる少し前に会われたことを知っています

 彼女の死は私には酷い打撃でした。その日は私の誕生日だったのです。今年の5月2日朝、夫妻はミュンヘンから私に電話をくれて、その日の夜に、プリセツカヤは亡くなってしまいました…。知り合ってから30年以上経ちますが、本当に親密だったのは最後の10年間です。4月半ばには、モスクワで一緒に楽しいひと時を過ごしましたし、その後、ペテルブルクでも素晴らしい数日を共にしました。こんな悲劇を予感させるものは何もなかったのです。何一つとして!…。彼女は11月に90歳を祝う準備をしていて、計画を立てていました…。

 私がロンドン交響楽団を退き、ミュンヘン・フィルを率いることにしたのは、かなりの部分、プリセツカヤ夫妻がここに住んでいたからなのです。もちろん、そのほかに、ドイツの音楽文化は、まだ私が自分を出し切れていない分野だということもありますが。でも、いつでもミュンヘンに行くときは夫妻に会うのを楽しみにしていたのです。夫妻はいつでも完全に一体でした…。

 

あなたはしばらく前から、ルクセンブルクの駐サンクトペテルブルク名誉領事を務めていますが、これは何かの特恵をあなたにもたらすのですか?

 理屈の上では、赤い外交官ナンバーをつけた車を乗り回すこともできますが、そんなつもりはありません。だって、そのためにお受けしたんじゃないですからね。もう20年以上の知己であるアンリ大公がお頼みになるので、断りきれなかったのです。この称号は、私には特権じゃなくて義務なのです。何に対してもこう考えることに慣れてしまいました。

 

(抄訳)

*記事全文(露語)