チャイコフスキー国際の"政治史"

タス通信撮影

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チャイコフスキー生誕175周年の今年、節目の15回目を迎える「P.I.チャイコフスキー国際コンクール」。そこには音楽とはかけ離れた秘密の歴史と国際的なもくろみがあった。

 有名なチャイコフスキー国際コンクール史の矛盾とは、その発祥がスターリン時代後期にあること。スターリン時代にアイデアが生まれたばかりか、コンクールを立ち上げたのがスターリン自身だったと信じるに足る根拠がある。

 スターリンとの関係についてあまり思いだされることはないが、こんな話だった。1950年代の終わり、特別な連絡チャネルを通じて、ベルギーのエリザベート王妃からモスクワのスターリン宛てに手紙が届いた。紋章入りの便箋には、ロシア語の手書きがあった。エリザベート王妃は、第二次世界大戦前に行われたブリュッセルの音楽コンクールでソ連の音楽家が活躍していたことに触れながら、自身の名称のついたバイオリン・コンクールが5月に開催されることを伝えてきた。そして、「このコンクールにソ連の若きバイオリン奏者が参加し、審査員として最高のバイオリン奏者の一人をソ連が派遣する」ことを希望した。

 特別な要請を受けて、バイオリン団が招集された。一説によれば、バイオリン奏者NO.1のダヴィド・オイストラフが「優勝できそうな若者は」ときかれ、レオニード・コーガンだけだと答えたという。

 スターリンはその若き天才を含めた何人かを出国させることにした。ソ連共産党政治局の決定には、「コンクールで上位に入賞できるであろう優れた音楽家4~5人を派遣する」と書かれた。

 コーガンは凱旋。2位に入賞したのは同じくソ連のバイオリン奏者ミハイル・ヴァイマンであった。

 

スターリン国際コンクール

 1951年には、大がかりなコンクールの準備が行われていた。国際コンクールを立ち上げるというクレムリンのアイデアは歓迎された。どこから見ても実りの大きいものであった。審査員を独自に選定し、参加者を選別できるのだ。

 場所は「五海の港」であるモスクワで、時期は1952年5月25日から6月15日まで。ステータスは国際フェスティバルとそのコンクールで、名称は「モスクワ音楽祭」。組織委員会の委員長は、むろん、ショスタコーヴィチ。ソ連時代の最高の作曲家なのだからこれ以外に考えられない。

 組織委員会は25人構成で。委員は作曲家のセルゲイ・プロコフィエフ、バイオリン奏者のダヴィド・オイストラフ、ピアノ奏者のレフ・オボーリン、指揮者のエヴゲニー・ムラヴィンスキー、バレリーナのオリガ・レペシンスカヤ、振付師イーゴリ・モイセエフなどの文化人。そして文化担当の役人。

 海外からの来賓である審査員と出場者は、在外ソ連大使館を通じて許可を得なければならなかった。取り組みはリベラルであるべきとされ、ナチスドイツによる占領と支配の時に、招待された人がどのような行動をしていたかなどには、とらわれるべきでないとのほのめかしがあった。ヒトラーの誕生日にオーケストラの指揮をとった、ムッソリーニに気に入られた、バイロイト音楽祭でゲッベルスにワーグナーの歌をうたったなど...

 ショスタコーヴィチが書いた「祭の要綱」によって、モスクワ音楽祭のメインイベントがコンクールであることが明らかになった。

 準備は着々と進められていたが、1952年に音楽どころではなくなる。朝鮮戦争の激化、水素爆弾の作業完了、「医師団陰謀事件」への準備...音楽祭は立ち消えとなり、資料は公文書館行きとなった。 そうこうしているうち、1953年3月、スターリンが死去する。

 

音楽のサプライズ

 1956年のソ連共産党第20回大会で、新たな最高指導者ニキータ・フルシチョフは個人崇拝に反対するキャンペーンを始めた。一ヶ月後には中央委員会文化部が、音楽祭・コンクールのコンセプトを修正する。そしてお決まりの流れになった。スターリンなくとも、スターリンの道筋を進むと。

 政治局は1956年7月30日、決定「P.I.チャイコフスキー国際ピアノ奏者・バイオリン奏者コンクールをモスクワで1958年3~4月に開催することについて」を採決する。組織委員会の委員長は、ショスタコーヴィチ。個人崇拝があろうとなかろうと、これ以外の人物はいない。

 組織委員会は著名なバイオリン奏者とピアノ奏者から審査員団を構成する。審査員名簿を中央委員会に提出し、承認を待つ。ソ連が崩壊するまで、これが定番となった。

 予期せぬ調整は、いつものごとく、政治がもたらした。1956年秋、ハンガリー動乱が発生し、ソ連軍の戦車がブダペスト入り。西側諸国はボイコットを始め、対ソ連分野別制裁は文化交流を直撃する。ソ連の作曲家のアメリカ行きは消え、ほぼすべてのツアーがキャンセルとなった。イヴ・モンタンはコンサートのためにモスクワを訪れることができたが、訪問の際にGUM(国営百貨店)でソ連製の下着を買い集め、その後パリでソ連の女性がどんなひどい下着をつけているのかを知らせる見本市を開いて、国際的なスキャンダルを起こしていた。

 とにもかくにも、第1回チャイコフスキー国際コンクールが行われる前に、全国若手音楽家コンクールに変わりそうな気配があった。

 

エリザベート王妃の優しさ

 状況を救ったのは優しい妖精、ベルギーのエリザベート王妃。政治的な舞台裏作業をしただけでなく、自らコンテストのためにモスクワに来ることを快諾したのである。これは突破口となった。

 ハンガリー問題についての発言に、ソ連最高会議幹部会の議長であるクリメント・ヴォロシロフ元帥が怒りの抗議を送った時でも、エリザベート王妃は落ち着いていた。これはとんでもない勘違いで、イギリスのエリザベス女王の発言だったにもかかわらず、電報がエリザベート王妃に送られてしまったのである。ソ連政府は心から謝罪をし、ヴォロシロフ元帥はやがて引退することとなった。

 コンクールには22ヶ国62人が参加した。役人はなぜか、ソ連人が優勝しなければならないと考えており、これを原則とした報告がクレムリンに提出された。

 あらゆる噂を中央委員会に報告する通報係もいた。例えば、審査員のリヒテルが25点制で多くの出場者にゼロをつけたことも報告されていた。

 リヒテルはアメリカのヴァン・クライバーンの優勝を強く望んでいたのである。クライバーンは実際に優勝し、世界的に有名になった。アンコールで「モスクワ郊外の夕べ」を演奏したことが、フルシチョフにいたく気に入られた。フルシチョフがコンクールと自身の秘密の計画を結び付けていたことに、疑いの余地はなかった。

 

主な勝者はフルシチョフ

 クライバーンの演奏の際に指揮者をつとめていたのはキリル・コンドラシン。その見事な指揮たるや!

 その後フルシチョフの秘密の計画が始まる。

 ニューヨークからの1958年6月7日付け電報。ニキータ・フルシチョフ第1書記宛て。

 「特別なお願いがございます。巨匠コンドラシン氏がロンドンを訪れ、6月15日に収容人数8000人のロイヤル・アルバート・ホールでロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮をとるようにしていただけないでしょうか。(中略)敬具。クライバーン」

 今日では、6月7日にソ連の最高指導者に要請して、16日にはロンドンのオーケストラの指揮をとっているというのは想像し難い。

 というのも、5枚組の出国申請書を作成し、履歴書を書き、健康証明書を取得し、さらに職場、共産党組織、労働組合から紹介状を書いてもらい、ソ連共産党の党員の知り合いの推薦を受け、写真を用意しなければならなかったからだ。その後、ソ連文化省の意見を伺い、ソ連外務省から外交政策上の妥当性を評価してもらい、KGBから「OK」をもらうのである。

 だがどの組織も合意し、承認した。さて、指揮者のコンドラシンが行くことを、どのようにクライバーンに伝えるのか。

 アンドレイ・グロムイコ外相は6月13日までに、クライバーンに連絡せよとの在外ソ連大使館向けの手紙を作成した。コンサートまで残された時間は4日。

 だがフルシチョフはこれらの作業を却下し、自分で手紙を書くことにした。「電報を拝見し、モスクワでの貴殿の演奏で与えられた大きな喜びが再びよみがえりました。指揮者K.P.コンドラシンに対する貴殿の願いは受理され、すでにロンドンに出発しました。尊敬をこめて、N.フルシチョフ。1958年6月13日」

 誰もが満足していた。大成功である。だがロンドンは計画の通過点にすぎなかった。コンドラシンのアメリカ行きこそが政治的な大勝利だったのである。実際、アメリカのホワイトハウスでは、アイゼンハワー大統領夫妻が、クライバーンとソ連の指揮者を迎えた。ハンガリーのイベントやその他の問題をふりかえることなく、未来のことを考えなければ。

 明るい未来はすぐにやってきた。コンドラシンに続いて、ホワイトハウスをソ連のアナスタス・ミコヤン第1副首相が訪問。その後、アメリカのリチャード・ニクソン副大統領がモスクワを答礼訪問し、ソコリニキ公園で行われたアメリカ見本市でプラスチックのコップにペプシ・コーラを注いだ。続いてフロル・コズロフ副首相がニューヨークで行われたソ連見本市を訪れた。その秋すなわちチャイコフスキー国際コンクールの半年後、フルシチョフ自身がアメリカを訪問。プロパガンダはこの会談を「アメリカとの対面」と呼ぶことになる。

*記事全文(露語)