ミハイル・ショーロホフ:コサック村からノーベル賞まで

イワン・デニシェンコ/ロシア通信撮影

イワン・デニシェンコ/ロシア通信撮影

5月24日は、ソ連の作家ミハイル・ショーロホフ生誕110年。そこで、その生涯と創作の興味深い頁を紐解いてみよう。

剽窃の嫌疑 

 ショーロホフの名を広く世に知らしめたのは、第一次世界大戦および国内戦におけるドン・コサックを描いた大河小説『静かなドン』(1928~1932年)だが、多くの批評家は、彼がボリシェヴィキによって銃殺された名もない白衛軍の将校の原稿を自分の名前で発表したとの説があり、それはショーロホフの作品ではない、と主張した。また、弱冠21歳で教養の乏しい人にこれほど深遠で壮大で心理描写の細やかな作品が書けるわけがない、とみる向きも少なくなかった。

 しかし、それはショーロフの作品であると主張する人たちは、若さや教養のないことと才能は無関係であると口を揃え、若き天才としてヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやトーマス・マンを、教養の乏しい人としてマクシム・ゴーリキーやイヴァン・ブーニン(やはりノーベル賞受賞者)を、例に挙げている。

コサックではないコサック作家

 ショーロホフは、コサック村で幼年時代を過ごしたが、正確な出生地は、知られていない。そして、コサックを生き生きと繰り返し描いたショーロホフは、コサックの末裔ではなかった。彼の父親は、蒸気製粉所を管理する町人であり、コサックに属してはいなかった。母親は、農婦であり、嫁ぐまでは小間使いをしていた。ショーロホフは、母親が父親でない男に無理やり嫁がされたために私生児として生まれ、彼の両親は、彼の継父の死後にようやく結婚できた。

サルトルも彼を称賛した…

 1964年、フランスの作家で哲学者のジャン・ポール・サルトルは、ノーベル文学賞を辞退し、その理由に関する声明で、前回の賞がショーロフに授与されず「賞を受けた唯一のソ連の作品が、本国では禁じられ国外で出版された本であった」(1958年のノーベル賞受賞者ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』のこと)ことに遺憾の念を表わした。

 この声明がノーベル委員会を動かして、翌1965年に「ロシアの転換期におけるドン・コサックについての物語の全一性と芸術力に対して」ショーロホフに賞が授与された、と思われる。 

長篇小説『静かなドン』の映画化

 この長編小説は、20世紀に三度(1930、1958、1992年)、ロシアで映画化されている。高名なセルゲイ・ゲラーシモフ監督による1958年の作品は、数々の国際賞に輝いた。

 三つめの作品は、映画『戦争と平和』でオスカー賞やゴールデングローブ賞を受賞しているやはり高名な監督であるセルゲイ・ボンダルチュークが、メガフォンをとった。この映画は、ソ連、イギリス、イタリアの合作であったが、イタリアのプロデューサーが、自己破産を宣告し、ほぼ完成していた映画は、イタリアの銀行に差し押さえられた。結局、セルゲイ・ボンダルチュークは、自分の作品を観ることなく他界してしまったが、後に、子息のフョードル・ボンダルチュークが、短いテレビ版を編集している。

銃殺刑の判決に関する隠された事実

 ショーロホフは、15歳のときから働き、荷役労働者から学校教師まで、職を転々とした。1922年、村の税務調査官を務めていたショーロホフは、収賄容疑で逮捕され、裁判で銃殺刑を宣告された。父親は、多額の保釈金を支払い、被告が17歳ではなく15歳となっている新しい出生証明書を裁判所へ提示し、銃殺は、未成年者用矯正施設への収監一年に切り替えられた。とはいえ、護送されたショーロホフがなぜ施設まで行きつかなかったかは、今も不明である。

ショーロホフとソルジェニーツィン 

このノーベル賞作家同士の複雑な関係は、よく知られている。1970年代、ソルジェニーツィンは、長篇小説『静かなドン』を剽窃したとしてショーロホフを非難した人の一人だった。 

 一方、ショーロホフは、ソルジェニーツィンへの中傷攻撃に与し、「ソヴェート国家の平和政策への不信を生みだそう」としているとしてソルジェニーツィンとサハロフを非難するを非難する例の「ソルジェニーツィンとサハロフに関する1973年8月31日の新聞『プラウダ』の編集部へのソ連作家グループの書簡」に署名した。また、党に忠実な作家であるショーロホフは、ソルジェニーツィンの中篇小説『イヴァン・デニーソヴィチの一日』へのレーニン賞の授与に異を唱えた。

 後に、この両作家は、相手の創作に対するコメントを拒否するようになった。

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