I.コシャニ/ロシア通信撮影
詩人アレクサンドル・ブロークの「自らが自らの掟」(「カルメン」の一節)は、まさに幼年時代からのプリセツカヤそのものだった。彼女は、自ら「バレエの途」に就いた。父親は、極圏のスピッツベルゲン島のソ連総領事であり、マイヤは、系統だった教育を受けられる環境になかった。しかし、初めは、北氷洋へ赴く家族の一時的不在にもかかわらず、後には、父親がその犠牲となった弾圧にもかかわらず、彼女は、バレエの基礎を身につけることができた。教育の最後の数年は、大祖国戦争の時期と重なった。プリセツカヤは、マリウス・プティパ時代の最後のバレリーナの一人であり高貴で優美なペテルブルグ様式の体現者であるエリザヴェータ・ゲルトのクラスで学びを修めつつあった。エリザヴェータ・パーヴロヴナは、教え子の教育のばらつきを整えることはできたが、類まれな天賦の資質と相まったその気性を抑えることはできなかった。
衝撃のデビューと時代を超えた舞踏
けれども、ボリショイ劇場(正確には、モスクワで活動していた同劇場の支部であり、本部は、1944年までクイブィシェフ=現サマーラに疎開していた)の出し物へのプリセツカヤの初出演は、一大事件となった。空腹の戦時下でも、バレエ好きたちは、17歳のプリセツカヤがキトリでもなくドリュアスの女王ですらなく4時間におよぶ壮大なバレエの最後に1分間つづく挿入のヴァリエーションを踊る「ドン・キホーテ」の切符を求めて、なけなしの金をはたこうとするのだった。舞台を横切る大きな跳躍で構成されるこのソロにおいて、プリセツカヤは、着地しない力強い飛翔の感覚を生みだしつつ、彼女が舞台を征服した力や巨きな跳躍によって、人々を驚嘆させた。けれども、それ以上に、モスクワが抱いていた勝利の予感を目に見えるものとしつつ、勇気と歓喜によって…。
当時の女性としてはかなり背が高く(身長165㎝)、理想的なプロポーションをしており、信じられないほど美しく長い首に品よく頭がのっており、足の筋肉が柔らかくすらりとしている、プリセツカヤは、調和、「火砲の」跳躍、躍動的な回転、巨きな足取り、といった稀有な資質を具えていた。
けれども、バレエの特殊性は、その世代ではユニークな天来の可能性が、次の世代ではもはや月並みであったり物足りなかったりする、という点にある。まさにそれゆえ、わりと最近の偉大な舞踊家たちの記録映像でさえ、苦しげな当惑を呼び起こしている。バレエにおいては、肉体的な資質とともに美的な基準も変わるものだから…。
プリセツカヤの場合は、例外であり、1957年の「白鳥の湖」や1963年の「ラウレンシア」と「ドン・キホーテ」の圧巻の録画は、今も臨場感に溢れていて感動を誘う。多くの点で、彼女の天性がほかの人たちより半世紀ほど先んじていたおかげで…。そして、もっとも重要なのは、ボリショイの大スターであったアサーフ・メッセレールやスラミーフィ・メッセレールの姪であるプリセツカヤが、筋肉でも肉体的資質でもなく性格によって踊ったり跳んだりするモスクワのバレエの主な原則を、その血に宿して生を享けたことである。
独立不羈
プリセツカヤの性格は、彼女の主たる財産であった。学校時代、彼女自身も、母親が強制労働ラーゲリに収容されているあいだ彼女を育てたおばのスラミーフィも、教師たちも、それに手を焼いた。けれども、まさにそのおかげで、彼女は、ボリショイ劇場で自分を発揮することができた。戦争の末期、同劇場は、瞭かに新人を必要としておらず、マリーナ・セミョーノワ、スラミィーフィ・メッセレール、オリガ・レペシーンスカヤ、ソフィヤ・ゴローフキナなどが絶頂期にあり、ガリーナ・ウラーノワがバレエ団へ招聘されていたにもかかわらず…。
その性格は、プリセツカヤをソ連の一流の振付師たちにとって魅力的な存在にし、彼女は、幼い頃には、レオニード・ヤコブソンと、後には、ロスチスラフ・ザハーロフ、ヴァシーリイ・ヴァイノーネン、レオニード・ラヴローフスキイ、カシヤン・ゴレイゾーフスキイ、ユーリイ・グリゴローヴィチ、ナターリヤ・カサートキナ、ウラジーミル・ヴァシリョーフと、仕事を共にした。彼女が1956年のロンドン公演へ連れて行ってもらえずにソヴィエト・バレエの国外初の大成功の蚊帳の外にあったときにも挫けなかったのは、その性格のおかげである。
けれども、1959年のボリショイ劇場の米国公演という初の西側へのツアーの際に、彼女は、ガリーナ・ウラーノワ、ナターリヤ・ドゥジーンスカヤ、イヴェット・ショヴィレ、アリシア・マールコワ、マーゴ・フォンテイン、アリシア・アロンソらが名を列ねる女神たちの輪へ加えられた。舞台の外で、プリセツカヤは、ソ連市民についてのあらゆるイメージを覆した。彼女には、ウラーノワの穏やかな温和しさも、リヒテルの知的な奥床しさも、ヴィシネフスカヤの不遜な派手やかさもなかった。出会った人たちは、まるで外国公演につきものの「私服の芸術学者たち」が彼女の背後にいないかのような彼女の率直さや見境のなさに愕かされた。彼女は、ルドルフ・ヌレエフと同様、西側で容易く友人やファンを手に入れ、勧められない演奏会や展覧会へ足を運び、ソ連の出張者たちが国外でさえ普通は目にしないような生活に浸った。
限界を知らぬ永遠の踊り手
プリセツカヤの芸術も、境界を知らなかった。彼女には、人々が多くのソ連の芸術家たちの抜群のプロフェッシュナリズムに感嘆しながらよく口にする古風とか田舎風といったものはなかった。パリ・オペラ座のバレエ団を率いてロシアとフランスの両文化を担っていたセルジュ・リファールは、こう記した。
「マイヤは、テレプシコラーの麗しき娘。私は、彼女の芸術、彼女の忘れえぬ『瀕死の白鳥』の演技に魅了された。マイヤは、聖なる火を生みだす光の音楽につき動かされており、あたかも崇高で幸福なるものへの希望を自らの愁いのうちに呼び起こしつつ愛と哀しみの讃歌を奏でている。彼女のなかでは、情感と技巧が一つになって美しいものの調和を形づくった。そのようにして、私たちは、モーツァルトやプーシキンを愛し、感じ、理解することを教えられた。マイヤ・プリセツカヤ、それは、純粋で永遠の芸術の化身」
プリセツカヤは、その性格のおかげで、西側のバレエを自ら評価するばかりでなくモーリス・ベジャールのバレエを踊る許可を得ることもできた。彼女は、モスクワでナンシー・バレエ団とともにセルジュ・リファールの「フェードラ」を上演し、ローラン・プティ(ペレストロイカのかなり前に「薔薇の死」を演出した)やコンテンポラリー・ダンスの名振付師ジジ・カチュリャヌ(プリセツカヤとパトリック・デュポンのために「シャイヨの狂女」を演出した)やマッツ・エック(ある記念日に彼女は彼の「カルメン」を招致した)にボリショイ劇場の門戸を開いた。
最期まで、彼女は、舞踊におけるあらゆる新しいものや非凡なものへの熱い関心を抱きつづけ、アレクセイ・ラトマーンスキイの舞踊の試みを最初に支持したのも、彼女だった。そして、彼女は、舞台に立ちつづけていた。プリセツカヤにとって、舞踊は、職業ではなく、彼女の性格がつねに自分の肉体をそれへ従わせることのできた精神の位相であった。だから、プリセツカヤを目にした人の意識において、そして、彼女のことを耳にしただけの人の意識においてさえ、彼女は、永遠に踊りつづけている。
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