大衆化した高地部族の剣「シャシュカ」

1917年の革命後、シャシュカは赤軍の主な刃器となり、第二次世界大戦中もソ連騎兵部隊では依然として使用されていた。=オゼルスキイ撮影/ロシア通信

1917年の革命後、シャシュカは赤軍の主な刃器となり、第二次世界大戦中もソ連騎兵部隊では依然として使用されていた。=オゼルスキイ撮影/ロシア通信

シャシュカは汎用性が高いため、カフカス山脈の部族の間で用いられていたささやかな起源をはるかに越えて、軍隊で普及するに至った。

カフカスの日本刀 

 元々はカフカスの高地人によって鍛造されたシャシュカ剣はコンパクトで使いやすく、一生使えるきわめて致命的な凶器である。

 フルサイズのサーベルとまっすぐの剣の間にあたるシャシュカは、実は伝統的なカフカスの短剣からアイデアを得たもので、その名はチェルケス語で「大きな刃物」を意味する。

 刃と柄に華やかな装飾が施されている場合が多いシャシュカは、1900年代にロシア軍によって採用されるまでの何世紀にもわたってチェルケス高地人の携帯武器だった。

 また、薄く先細になった鉈のようなシャシュカの緩やかな弧状の刃は、長さが1メートル、重量も1キロにおよぶことがある。そのサイズと形状は山岳での戦いや、幅の狭い曲がりくねった道や森の中での競り合いに適しているが、それは歩兵や騎兵の乱闘においても理想的だった。

 この武器は幅広く普及していたが、楯がなければ敵の攻撃をかわすのが困難なため、その扱いをマスターするのには特定の技術力を要した。しかし同時に、細い線状になっているおかげで、剣を鞘から素早く引き抜き、大きく振り回す必要なしに一気に攻撃し、すぐに防御態勢に戻ることができた。

 この剣は、日本刀のように、たいていの場合一突きすれば十分だった。しかし、刀やサー​​ベルとは異なりシャシュカは製造が簡単だった。貧しいカフカス地方の人々にとっては、これが不可欠な要件だった。

 

敵に学ぶ 

 カフカス山脈の麓に定住して国境警備隊として仕えたロシア系コサック人は、この高地の武器が持つ利点に注目した。

 チェルケス人は彼らにとって最大の敵であったものの、コサック人は大きなパパーハ帽など、チェルケス人の軍服や武器の数多くの基本的な要素を取り入れていた。

シャシュカ

ヴィクトル・ポゴンツェフ撮影/タス通信

 コサック人はまた、彼らが好んで持つ剣やチェルケス人が視覚的効果のためにそれを振り回す芸のほか、ジギトフカと呼ばれる乗馬芸も取り入れたが、コサック人はこの芸を事実上お家芸も言えるスポーツにしてしまったくらいだ。

 ロシア人も、採用したこの武器にさらなる手を加えた。1838年に、バクラノフ・シャシュカという改良されたバージョンがコサック隊に支給された。伝説的なコサック将軍でチェルケス人とチェチェン人を悩ました大敵、ヤコフ・バクラノフにちなんで名付けられたこの武器は、シャシュカとサーベルを融合させたものだった。刃に婉曲があり重心がずれているため、この武器を思いっきり振れば一撃で敵の首を切り落とすことが可能である。

 シャシュカは、ロシア軍のいたる所に配属されたコサック人の間で瞬く間に普及した。19世紀半ばまでには、多くの部隊がすでにこれを携行しており、19世紀後半になると、騎兵の主な武装品としてサーベルに取って代わっていた。

 

銃火器の時代も生き延びる 

コサック

AFP/East News撮影

 銃火器の時代になると、軽騎兵用のサーベルと胸甲騎兵の剣は姿を消し、大きな弧状の刃をした武器は無用の長物と化した。一方、コンパクトなシャシュカは、近接格闘ではリボルバーよりも適している場合が多かった。

 1917年の革命後、シャシュカは赤軍の主な刃器となり、第二次世界大戦中もソ連騎兵部隊では依然として使用されていた。

 シャシュカは1949年まではソ連の将軍用標準礼装の標準装備品であった。また、1968年以降は儀杖兵に支給された。

 ソ連では、1950年代にこの古い武器の連続生産が打ち切られた。そのきっかけとなったのは、残存する最後の騎兵隊の解散であった。しかし、コサック人の伝統の再生が進む1998年のロシアで、これが復活した。

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