「雪解け」が民主主義の始まり

映画「私はモスクワを歩く」(ゲオルギー・ダネリヤ監督)= 写真提供:Kinopoisk.Ru 

映画「私はモスクワを歩く」(ゲオルギー・ダネリヤ監督)= 写真提供:Kinopoisk.Ru 

雪解けとは、ソ連時代の1950年代半ばから1960年代半ばまでの期間のことで、ソ連の政治に民主的転換が起こり、弾圧が終わり、社会改革が始まり、言論の自由が生まれた。専門家は、この時期にロシア社会で民主主義の原則の形成が始まった、と考える。

 雪解けが始まったのは、スターリンが死去した1953年。見せしめ的な裁判がなくなり、受刑者の社会復帰および矯正収容所の廃止が始まり、言論の自由が生まれ、ソ連人は徐々に抑圧を恐れなくなっていった。外交政策では西側への転換が図られ、資本主義世界との「平和的共存」の路線がとられた。 

 

スターリン批判

 ロシア経済・国家行政アカデミーの主任研究員で、歴史分野のエゴール・ガイダル賞受賞者、「19531964年フルシチョフの雪解け」の著者であるアレクサンドル・プルィジコフ氏は、ソ連政府がスターリンの死後、政権を緩め、脱スターリン化を行わなければならなかったと話す。「政府は当初から、全体主義体制を弱め、国民生活の社会的条件を改善したいと考えていた。フルシチョフは政権に就くと、はるかに進んだ路線をとることを決め、スターリンの人格を公に暴露し始めた。病的問題を公にしたことで、ソ連社会を傷つけてしまった。スターリンの役割についての意見の相違は、いまだに国内に存在している」

 ロシア科学アカデミー社会学研究所の上級研究員であるレオンチー・ブィゾフ氏も、フルシチョフのイデオロギー的な政策がソ連社会で完全な支持を得られなかったと話す。「雪解けが終わり、レオニード・ブレジネフが政権に就くと、多くがスターリン崇拝の復活を予期した。だがブレジネフはそれをしなかった。ミハイル・ゴルバチョフ時代になると、『雪解けの子どもたち』がスターリン暴露の新しい波を起こした」

 

共産主義、スターリン主義、人道主義

 政治的観点からすると、雪解けは共産主義的計画を人間的政策に変える機会を与えたと、ブィゾフ氏。「歴史は振り子の法則に従って進む。ソ連の最初の雪解けは1920代初め、戦時共産主義のテロリスト政権の後にあった。これは1928年から1929年まで続いた。そしてスターリン時代、第二次世界大戦という困難な時期が始まり、再び雪解けが起こった。ソ連の雪解けの終わりは1968年、政府がチェコスロバキアの情勢に驚き、検閲を急速に強化し、政治的迫害が起こった時」

 雪解けは終わったものの、1960年代の世代を、丸ごと育てたという。この世代は、ゴルバチョフ時代まで活動し、多くの部分で国の民主化を決定づけた。

 ロシア人は雪解けを、自由、希望、変革の時期と記憶している。モスクワっ子のヴァレンチナ・サドヴァヤさんは、フルシチョフの雪解けの時、学生だった。著書「グラグ(矯正収容所)の思い出とその作者」の中でこう書いている。「スターリン崇拝が非難され、広く恩赦が与えられたことを覚えている。書店ではソルジェニーツィンの本を購入することができるようになった。ひんぱんに美術展に行き、自由を感じ、ひそひそと話すのをやめ、大声で話し始めた」

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ソ連時代の広告

 雪解けの時には文化的ルネッサンスが起こり、ベーラ・アフマドゥーリナ、ロベルト・ロジュデストヴェンスキー、アンドレイ・ヴォズネセンスキー、エヴゲニー・エフトゥシェンコなどの作家や詩人、マルレン・フツィエフ、ゲオルギー・ダネリヤ、レオニード・ガイダイなどの映画監督が、次々に作品をつくった。また、科学でも飛躍的進歩があった。高・超高エネルギー物理学、初の分子ビーム・メーザーすなわちレーザーという新しい方向性の発展につながった、世界最大のシンクロトロンがつくられた。宇宙分野では、弾道ミサイルや、また月、金星、地球近傍・惑星間空間を研究するための、有人自動ステーションがつくられた。

 人権団体「モスクワ・ヘルシンキ・グループ」のリュドミラ・アレクセエワ代表は、雪解けの時に青春時代を送った。「スターリンの死後、人々には自由への希望が生まれた。大々的な弾圧が終わった。だが厳しい検閲、プライベートな生活への干渉、芸術に対する社会主義リアリズムの規範の押し付けは残った」

 雪解けがもたらした大きなプラスとは、ソ連の人々の日常生活に会話が生まれたことだという。それまでタブーだった話し合いを皆が始めた。「雪解けのおかげで、人権運動が生まれた。これはいまだにロシアで続いている。今日の人権擁護者とは、『雪解けの子どもたち』の信念の後継者。私は1965年に人権保護活動を始めた。人権のために戦って、2015年で50年になる」とアレクセエワ代表。