パパーハ:脱いではいけない帽子の歴史

タス通信

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コサックとカフカス人にとって、毛皮の縁なし帽「パパーハ」は、誇りの象徴であり、決して頭から落としたり、失くしたりしてはならない――首ごと失う場合を除いては。

 パパーハ発祥の地、カフカスには、こんな諺がある。「首が無事なら、パパーハが載っているはず」、「パパーハを被るのは、暖かいからではなく、誇りのため」、「相談相手がいないなら、帽子と相談しろ」。コサックには、「最も大事なのは剣と帽子」という諺がある。 

 

血の復讐 

 しきたりによれば、パパーハを取ることが許されるのは特別な場合だけで、例えば、部族間の血の抗争を止めるように求めるケース。あるいは、男性が言い争いの最中にパパーハを取り地面に投げつけたとすれば、死ぬまで一歩も退かないという意味だ。

 またダゲスタンには、パパーハを使ってプロポーズする伝統がある。もし青年が人前で大っぴらに求婚するのを恐れなければ、自分の帽子を、意中の娘がいる部屋の窓に投げ込む。もし帽子が長い間投げ返されなければ、承諾を期待していい。なお、頭からパパーハを叩き落すのは大変な侮辱になる。

  パパーハを被ってうな垂れて歩くことはできない――頭から滑り落ちてしまうから。いわば、帽子が「ピンと背筋を伸ばして」歩くように教育しているようなものだ。

 カフカスの衣装で最も価値あるものが、このパパーハである。有名なレズギンカ(カフカスの舞曲)の作曲家ウゼイル・ガジベコフは、劇場に行くときは切符を2枚買うのが常だった。一枚は自分用、もう一枚は帽子用だ。

 またチェチェンの名高い舞踏家マフムド・エサムバエフは、ソ連最高会議代議員を務めたが、審議中帽子着用を許された唯一の議員だった。当時の最高指導者レオニード・ブレジネフは、演説前に議場をぐるりと見渡し、エサムバエフの帽子を見つけると、「マフムドは来てるな、じゃ、始めよう」と言ったとか。

 

コサックのパパーハ 

ロシア通信

 コサックのパパーハは、毛皮の見た目も、毛足の長さも異なっている。第一次世界大戦までは、熊、羊、狼の毛皮で作ることが多かった。これらの毛皮は、サーベルの打撃を和らげるのに最適だったからだ。

 パレードのための、将校用パパーハもあり、これは銀モールで縫い取りがしてあった。ドン、アストラハン、オレンブルク、セミレチェンスク、シベリアの各コサック軍団は、毛足の短い毛皮で作った円筒状のパパーハを被っていた。色は灰色が最も多かったが、基本的に白以外なら――戦闘中の黒も含め――どんな色でも良かった。ただし派手な色はご法度だった。

 

「トゥマーク付きのパパーハ」

 パパーハという言葉の起源は、テュルク系言語にあり、意味は文字通り「帽子」だ。ロシア語に入ってきたのは、19世紀のカフカス戦争の時期。「トゥマークを散々食わせる→散々ぶん殴る、やっつける」という慣用句も使われるようになった。トゥマークとは、パパーハの後ろに縫い付けられた長い三角帽子で、16~18世紀からドン・コサックとザポロージェ・コサックの間に広まっていた。戦いの前にここに金属板を入れると、それが背後からのサーベルの打撃から首と頭を守ってくれた。戦いたけなわで肉弾戦になったとき、実際トゥマークのおかげで敵を撃退し「散々やっつける」ことが十分あり得た。

 最も高価で名誉あるパパーハは、カラクール種の子羊から取れるアストラカン製のもの。カラクールという言葉は、ウズベキスタンのザラフシャン川流域のあるオアシスの名前を語源とする。高級毛皮のアストラカンは、生後数日以内の子羊からしか取れない。将官のパパーハは専らアストラカン製だ。

 

帰ってきたパパーハ 

 ロシア革命後、コサックは伝統衣装の使用を制限された。パパーハはブジョンノフカ(ブジョンヌイ帽)に替えられたが、早くも1936年にパパーハが復活し、コサックは黒色の丈の低いパパーハの着用を許された。ラシャ地に二本の帯が十字型に縫い付けられ(将校は金色、コサックの兵士は黒)、前面にはもちろん赤い星が付いていた。1940年からは、パパーハは、赤軍の高級将校の軍帽となり、独裁者スターリンの死後は、政治局員の間で流行るようになった。

 

記事全文(露語)