禁じられた映画

ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した最初の映画「僕の村は戦場だった」は、ソ連の映画館の朝の部でしか上映されず、児童映画扱いされていた。=写真提供:kinopoisk.ru

ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した最初の映画「僕の村は戦場だった」は、ソ連の映画館の朝の部でしか上映されず、児童映画扱いされていた。=写真提供:kinopoisk.ru

7月1日に施行された罵り言葉禁止法によって、ロシアの一部映画は公開承認を得ることができていない。批評家や映画監督は、ソ連時代の検閲との戦いを、今改めて振り返る。

 ソ連の映画監督は、自分の考えを伝えることができていたのだろうか。それともソ連のシステムをただ反映させていただけなのだろうか。過去の例をたどれば、監督と検閲の相互関係を知ることができる。

 

宗教はタブー

 アンドレイ・タルコフスキー監督は、ソ連時代に5作品しか製作できなかった。1作品の制作に平均1年かかるとして、タルコフスキー監督は16年間無職だったことになる。ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した最初の映画「僕の村は戦場だった」は、ソ連の映画館の朝の部でしか上映されず、児童映画扱いされていた。この映画が西側で反戦映画と解釈されたことは、ソ連政府を困惑させた。冷戦とキューバ危機の時代、ソ連の外交政策に反した作品であった。

 タルコフスキー監督のどの作品も世界的な傑作になり、またソ連の厳しい検閲対象になった。映画「アンドレイ・ルブリョフ」は宗教的なシンボルを多数含んでいたため、25分縮小された。この作品の後、6年間撮影が許されなかった。映画「ストーカー」と「鏡」は、その言語の難しさから公開が制限され、否定的な報道がなされるか、あるいは一切報道されないかのどちらかであった。映画「惑星ソラリス」だけが比較的すんなりと受け入れてもらえたが、哲学的な路線と神に関する考察はソ連の役人に気に入られず、40ヶ所以上の修正が要求された。この映画はソ連で広く知られていた。

 

何重もの検閲

 映画「遠い日の白ロシヤ駅」のアンドレイ・スミルノフ監督は、こう想起する。「明確な規定というものがなく、『良否』を決める役人次第だった。(完成作品の提出先である)国家映画委員会は最終段階であって、検閲は製作1日目から始まっていた。『モスフィルム』映画スタジオで専属編集員がシナリオを確認し、次に芸術評議会や、映画関係者、脚本家、監督のチームが協議し、そして必ず地元の共産党組織が加わっていた。完成作品は入念にチェックされた」

「遠い日の白ロシヤ駅」=写真提供:kinopoisk.ru

 映画研究家のヴィクトル・マチゼン氏はこう話す。「検閲指南書はなかったが、検閲官に気に入られない理由は簡単にわかった。例えば、女性の主人公はソ連的な女性でなければいけない。浮気をするような女性であれば、『この映画で何を伝えようとしているんだ?ソ連の女性が皆浮気性とでも言いたいのか?』などと言われる。『鶴は翔んでゆく』の映画がカンヌ映画祭でグランプリを受賞した時、ミハイル・カラトゾフ監督はソ連であまり称賛されなかった。イズベスチャ紙に写真なしの小さな記事が掲載されただけで、監督の名前すら書いてなかった。ぞんざいな扱いを受けた理由は、主人公が前線に行った夫を裏切る場面に、フルシチョフ第一書記が極めて否定的な反応を示したためだと言われている」

 

階級的アプローチ

 重要な要求には「階級的アプローチ」もあった。カンヌ映画祭でグランプリを受賞した、アンドレイ・コンチャロフスキー監督の映画「シベリアーダ」では、人生の困難さがイデオロギー的なステレオタイプに無理やり結び付けられた。あるシーンでは、村の墓地に隣接する場所で掘削作業を行っていた地質学者が、ようやく石油を発見する。だが噴出したガスによって火災が発生し、徐々に墓地に炎が迫っていく。村の住民は親族の墓のところまで行こうとするが、爆発の危険があるため、止められてしまう。そして死者と生者の別れの抱擁が映る。ここに役人は、「生者と死者の象徴的な親交が、階級的和睦の性質を持ってはいけない」と反応した。

コンチャロフスキー監督の映画「シベリアーダ」では人生の困難さがイデオロギー的なステレオタイプに無理やり結び付けられた。=写真提供:kinopoisk.ru

 これ以外にも、国家映画委員会はソ連政府批判が隠されていることを懸念。検閲はエスカレートしていった。「階級を的確にする」、「社会・階級的側面を説明する」というような修正が求められた作品には、歴史・革命的映画だけではなく、児童の童話やSFもあった。ストルガツキー兄弟の「地獄に戻る闘猫」のシナリオについてもそうであった。地球人が宇宙人の内部問題に干渉するところに、検閲官は「革命の輸出」というコンセプトを見いだした。ストルガツキー兄弟は要求にこたえようとしたが、作品は公開推奨にならなかった。

 

映画の墓地

 「ソ連映画は検閲のメスや斧の下に置かれていたと言える。検閲は映画と実現されなかったプロジェクトの巨大な墓地を生んだ。禁止や修正だけでなく、”公的私刑”もあった」と映画研究家のヴァレリー・フォミン氏は説明する。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督は1935年、実の父親を密告したパヴリク・モロゾフ少年に関する映画「ベジン高原」の制作にとりかかった。国の要求に従った作品になると思われていたが、ソ連の思想に反する作品となったため、フィルムは次々と削除された。映画社会は監督を中傷し、自殺寸前まで追い込んだ。

 

新しい検閲

 「検閲は消えずに復活している。検閲と呼ばれていないだけ。今は『公開承認書の非発給』と言う」とマチゼン氏。7月1日に施行された新しい法律は、映画の一般公開を決める権利を役人に与えている。禁止されている表現を使用した作品を制作することに、国は罰金を科そうとしている。11月、アンドレイ・ズヴャギンツェフ監督の新作「レビヤタン」がロシアで公開されるが、オリジナルとはかなり異なるものになる。新しい法律にほぼ触れる作品であるため、音声吹き替えが行われる。